Follow Seian

SEIANOTE

成安で何が学べる?
どんな楽しいことがある?
在学生の制作活動から卒業後の活動までを綴る
「SEIANOTE(セイアンノート)」です

ABOUT

明日も、明後日も。 生きていくためにつくり続ける

INTERVIEW

卒業から20年目

明日も、明後日も。
生きていくためにつくり続ける

 

 現代美術の登竜門ともいわれ、毎年各方面から注目を集めている「岡本太郎現代芸術賞」の岡本太郎賞を受賞したつんさん。受賞作《今日も「あなぐまち」で生きていく》は、つんさんが生きてきた証と営みが詰まった作品。
 「ずっと生きづらさのようなものを抱えていた」という幼少期から、「自分らしく生きていく起爆剤になった」という大学時代を経て、ひっそりと守ってきた“世界”を表現することで新しい景色が見えてきた現在までを辿り、作品に詰まったエネルギーの奥にあるものを教えてもらいました。

つんさん

美術家

1981年北九州市生まれ。2004年に印刷クラス(現イラストレーション領域)卒業。広告代理店に3年間勤務した後、退社し、作家として独立。熊本県菊池市にアトリエを構え、制作を行う。「第27回岡本太郎現代芸術賞」(2024年)で最高賞である岡本太郎賞を受賞。2024年夏には宇城市不知火美術館にて個展「つん 今日も『あなぐまち』で生きていく」を開催。


作品は自分を救うための行為の蓄積

photo by Tomoki Okamatsu


 2024年2月、川崎市岡本太郎美術館で行われた「第27回岡本太郎現代芸術賞展」。展示室に足を踏み入れてまっさきに目に飛び込んできたのは、天井にまで届きそうな巨大な塔。その高さ4.5m。近づくと、それは段ボールでできた「団地」が構成する「まち」で、800室もある団地の部屋に入居しているのは、鉛筆や消しゴム、マニキュア、石ころなど身の回りの「もの」たち。
 これが、「第27回岡本太郎現代芸術賞」で岡本太郎賞を受賞したつんさんの作品《今日も「あなぐまち」で生きていく》。小さな住人たちには、それぞれ住民名簿があり、思わず「ふふっ」と微笑んでしまうエピソードが小さな絵本のように描かれています。


岡本太郎賞と、来館者の投票によるオーディエンス賞も受賞した《今日も「あなぐまち」で生きていく》(2024年/450×400×250cm/段ボール、ジェッソ、アクリル絵の具、アクリル板、レジン、色鉛筆、防水材、水彩用紙、木材、ボンド、プラ板、毛糸、折り紙、糸、コピー用紙、石塑粘土、ホッチキス、建築模型用パウダー、布、イレクターパイプ、メタルジョイント、澱粉糊、ワイヤー、フローラルテープ、ボタン)。[写真1枚目/第27回岡本太郎現代芸術賞(TARO賞)展示風景(川崎市岡本太郎美術館、2024年)]

 ひと部屋ずつ収められている住民名簿を夢中で読みながら、ふと見上げれば、はるか頭上にもたくさんの部屋と住人たち。住民名簿はすべて手描きで手製本、段ボール製の団地も1棟ずつ細かなところまで作り込まれ、住人たちはそれぞれ個性的なフォルムと愛らしい表情。――これが800部屋分!? 作品のスケールの大きさのみならず、細部から溢れ出るエネルギーが見るものを圧倒します。


  実はつんさん、10年前からこの「あなぐまち」と名付けた「まち」をつくり続けていました。「あなぐまち」は、「あたまのなかの、ぐたいてきなまち」に由来し、つんさんが子供の頃から心のなかで大切にしてきた世界だと言います。
「私には、子供の頃からすべてのものが生きて見えているんです。2歳のときから、母親と散歩をしていても、石ころや雲と会話していたらしくて。でも、そのことは大人から“自分の中だけにとどめておくんだよ”と言われて誰にも話せず、閉じ込めていました。自分のなかでひっそりと生活を共にするというか。世の中とのギャップのようなものをすごく抱えながら生きるなかで、石ころや鉛筆と会話することで癒されながら大人になったんです。《今日も「あなぐまち」で生きていく》は、作品という意識はありません。呼吸をしなければ生きられないのと同じで、ただただ、自分を救うために息を吸って吐くように生まれていったものなんです」


《今日も「あなぐまち」で生きていく》[写真1枚目]「くつした」や「バランスボール」などの「もの」だけでなく、「しぼうかん」や「もんがいふしゅつのレシピ」など“かたち”を持たないものも「あなぐまち」に住んでいる。[写真2枚目]1部屋に1冊収められている住民名簿。[写真3枚目]それぞれの団地も個性的。団地のまわりには段ボールの草花が生い茂る。[写真4〜5枚目]「ものが生きて見えるので、制作すると出てしまう段ボールの切れ端も、私にとっては全部いのち。捨てられません」とつんさん。段ボールの切れ端を溶かし、新しいかたちを与えられた“赤ちゃん”も「あなぐまち」の住人。


 「あなぐまち」はいわば、すべてのものに魂が宿るアニミズム的な世界。誰にも言えないけれど、まわりの人たちも自分と同じように「もの」が生きている世界が見えているのだと思っていたつんさん。そうではないと知ったのは、今から10年前の32歳のとき。
「子供の頃からみんなには見えていない世界のことを話したりするので、嘘つきとか、キャラをつくっていると思われたこともあります。ずっと『みんなにも見えているはずなのに、どうしてそんなに否定するんだろう?』と疑問に思っていたし、苦しいこともありました。でも、32歳のときにようやく『あっ、(みんなには)見えていないんだ!』と理解して。例えば、子供の頃はサンタクロースの存在を信じていますよね? なのに、まわりから『サンタクロースはいないんだよ』って言われて、その存在が消えていく。ただ、私がみんなとは違う世界を見ていたことに気づいたのは、もう誰の影響も受けない30歳を超えたいい大人になってから(笑)。これは揺るぎない自分らしさの源と捉え、突き詰めていこうと思いました」


自分らしく生きていいと
はじめて思えた大学時代

 つんさんは、絵本作家を志して成安造形大学の印刷クラス(現イラストレーション領域)に進学しました。小・中・高校と、なかなか家族や友達に思いが伝わらず、どこかこの世界とのズレや違和感を感じていましたが、はじめての環境を大学で経験することになります。
「高校2年生のとき、ポジティブな意味で友達に『つんちゃんって変わってるよね』って言われたのを機に『“まわりとなんか違う”のは個性なのか!』と、それまでとてもネガティブに捉えていたことが、少し自信になりはじめていたんですね。そして成安造形大学に来てみると……もう、”まわりとなんか違う”個性的な人だらけ(笑)。誰も私のことを否定しないし、私がよくわからないことを言っていても話を聞いて、受け入れてくれた。はじめて全肯定される環境に身を置いたことで、自分らしく生きていいんだと、背中を押されたような気がします」




 成安造形大学を選んだのは、ひょんなことから。中学の修学旅行で東大寺の大仏に魅了されたつんさんは「時間を気にせず、この大仏をじっくりと見られる環境に身を置きたい!」と、まずは関西の大学への進学を決意。数ある関西の美術系大学の中で、成安造形大学をすすめたのは通っていたアトリエの先生だったそう。
「少人数制だからマイペースな君に合ってると思うぞって。あと、アトリエを卒業した先輩たちが夏休みに教えに来てくれるんですけど、そこに成安造形大学に進学した人がいて『成安、いいよ』と。すごく仲良くなって、入学後も本当によくしてもらって、1年生のときから4年生の他クラスの教室に遊びに行ったり、卒業制作を手伝わせてもらったりしました。その人のおかげで、他学年の友達も多いですし、いろんなクラスの人と仲良くなれました」


大学3年生のときに生まれた「きいぼう」(写真右)。宇城市不知火美術館での個展『つん 今日も「あなぐまち」で生きていく』(2024年)では、つんさんの作品に度々登場する「チュッチュ」(写真左)とともに仲良く並ぶ。左:《チュッチュ 大》右:《きいぼう 大》(いずれも2024年/木材、スタイロフォーム、シュロ縄、石塑粘土、ジェッソ、アクリル絵の具、マットバーニッシュ)。

 ただ、大学時代もまだ「あなぐまち」の存在は、つんさんの心のなかに大切にしまわれたままでした。周囲が次々に作風を確立していくなかで、なかなか思うような作品が生み出せず、焦りを感じていたつんさんでしたが、大学3年生のとき「きいぼう」が誕生します。「ようやく頭の中でイメージしていた子がかたちになって、やっとこれで絵本が描けると思いました」。


  卒業後は現在も暮らす熊本の広告代理店にデザイナーとして就職したつんさん。これまで呼吸をするように心の拠り所としてきた「つくること」が、あまりにも業務が多忙すぎてできなくなってしまいます。
「社会的な信用を得たかったので、何があっても3年間は辞めない。アーティスト活動は3年後にする、と決めていました。でも、家と職場の往復だけの日々が本当に苦しくて苦しくて……。そんなときには、仕事終わりにバイクで今、アトリエがある菊池(熊本県菊池市)に来ていたんです。ただただ、菊池の自然のなかを走るだけですごく癒され、いつかそんな菊池に恩返しをしたいなと思っていました」


つくることで辿り着いた
新しいステージ

 3年間勤めた広告代理店を退社し、いよいよ、つんさんのアーティスト活動がスタート。1年をかけて作品を制作し、個展「あしたも お日さま でてこい でてこい 2008」(cifa-cafe/岡山/2008年)で作家としての再スタートをきります。しかし、つんさん自身は平面作品を制作する苦しさと闘っていた時期だったようです。
「当時は、絵本作家になるのなら平面でないとダメだ! という思い込みに縛られていたのだと思います。7年間くらい、ずっと平面作品を制作していたけれど、二次元で表現できることの限界を感じていました」




  ターニングポイントとなったのは、熊本市の河原町繊維問屋街で開催された「河原町アートアワード2014」。公募の多くは、平面や立体などの応募規定がありますが、「河原町アワード」はノンジャンル。規定がなく、自由な公募だったことが、つんさんの新しい一歩につながります。
「もしかしたらまた昔のように否定したり、批判されるかもしれないという怖さはあったけれど、記念に一度、自分の宝物である『あなぐまち』の仲間たちをみんなにお披露目しようと思ったんです。評価される・されないではなく、自分の仲間たちをみんなも見えるかたちにして残しておけば、私もまたその子たちを見て癒されるかなという気持ちでした」


[写真1枚目]つんさんがはじめて「あなぐまち」の存在を誰もが“見える”かたちにした「河原町アートアワード2014」熊本マンガミュージアムプロジェクト 橋本博賞とイム・ボラム賞の2賞受賞作《お日さま団地》(2014年)。「どうやってこの話を思いついたの?」と聞かれ、自分以外の人には「あなぐまち」が見えていないことを知ることに。[写真2〜4枚目]「菊池アートフェスティバル」(2016年)での展示風景。団地にはそれぞれ名前がついており「お日さま団地」は最初に制作したもの。ちなみに、この展示の3年後、つんさんはここにアトリエを構えることになる。(写真2〜4枚目photo by Hideki Shinagawa)

 40年もの間、ひっそりと、ただひとりで守ってきた「あなぐまち」。それを誰もが「見える」姿にするための行為が、つんさんを「平面でないとダメだ!」という思い込みから開放したとも言えます。このときの作品が、後に「第27回岡本太郎現代芸術賞」で岡本太郎賞を受賞する《今日も「あなぐまち」で生きていく》の原型になりました。
 最初は長屋のように横に並んでいた100部屋は、1年後の「熊本アート百貨店」(熊本県立美術館分館/熊本/2015年)では縦に積み上がって団地の形態に。そして3年後の「第29回熊本アートパレード」(熊本市現代美術館/熊本/2018年)でアートパレード大賞(熊本市賞)とオーディエンス賞をダブル受賞する頃には、500部屋になっていました。


2022年12月と2023年7月の前・後半にわたって行われた個展「つんとあなぐまち展」。冬と夏の芝の色が違うことに疑問を持ったことから生まれた作品。「子供の頃から工作は好きで、立体に対する意識も強かったと思います。せっかちな性分だし、子供の頃の工作の延長のような感じなので、自分の思いがダイレクトに伝わってかたちになることが心地良い。段ボールや粘土を素材にしているのは、そういった理由からです」。(photo by Tomoki Okamatsu, Keisuke Yamauchi)

 個展「つんとあなぐまち展」(Mori no ki/熊本/2022年、2023年)では、作品の世界を絵本にも展開。絵本作家を目指してもがいていた時代には描けなかった“自分らしい表現”を、ようやく掴んだ瞬間でした。
「平面が向いていないから諦めていたのに、立体でつくったものを見ながら描いてみたら『つんらしい、個性的な絵だね』と言ってもらえるようになって。遠回りしたからこそ、絵本でも自分の表現をできるようになりました」


個展「つんとあなぐまち展」(2022年、2023年)から生まれた絵本は、12月の前編『きいろと きいろの ごたごた』(写真奥)と7月の後編『あべこべの庭』の2冊。芝生のあちこちに配された小さな作品たちはどれも絵本に登場。つんさんが見ている世界を絵本で追体験できる。


そんなに頑張らなくても
あしたも、お日さまは出てくる

  現在、つんさんは、水と緑に囲まれた菊池市にある「菊池龍門アーティスト集合スタジオ(旧龍門小学校)」で制作を行っています。この地域は、つんさんが会社員時代、心身ともに疲れ果てたときに癒されていた場所でした。
「2016年と2017年に廃校になった旧龍門小学校で開催された『菊池アートフェスティバル』に誘われたことが、再び菊池に戻ってくるきっかけになりました。本当に縁だなと思います。ここにいるとすごく心が穏やかになるし、大好きな場所。自然が多くて、落ち着くところが、ちょっと大学の頃に過ごしていた滋賀にも似ている気がします」


山道を抜け、カーブを曲がると緑に囲まれた菊池の集落が目に飛び込んでくる。中央の旧龍門小学校がつんさんのアトリエ。ここが会場となった「菊池アートフェスティバル」に参加したことが、入居のきっかけとなった。多くの素材や道具、制作中の作品が置かれたアトリエは、まるでもうひとつの「あなぐまち」のよう。


 2024年7月には、宇城市不知火美術館(熊本)で個展が開催されました。個展タイトルは、日本語では岡本太郎賞の受賞作と同じく「つん 今日も『あなぐまち』で生きていく」ですが、英訳は「I am always here in the ‘ANAGUMACHI’ with you」。岡本太郎賞受賞作にはなかった「with you」の単語には、つんさんの心情の変化が表れていました。
「作品を発表したことで『すごく癒された』とか『元気づけられた』というメッセージをたくさんいただいたんです。それまでは『自分だけのもの』『自分を癒すもの』という感覚でいたけれど、少し変わってきました。今回の個展タイトルの英訳に『with you』を採用したのは、『あなぐまち』は目に見えないだけで、その存在を知っている人も、知らない人も含めて、“みんなのそばにいるよ”という思いから。つくることは、評価されてもされなくても変わりません。これまでと同じで、呼吸をするようにつくり続けると思いますが、”誰かに届ける”という、これまでは見えなかった新しい景色が見えたように思います」


[写真1枚目]2024年7月13日(土)~ 2024年9月16日(月・祝)宇城市不知火美術館にて開催された個展『つん 今日も「あなぐまち」で生きていく』。展覧会を鑑賞後、美術館の建物を振り返ると、岡本太郎賞受賞作《今日も「あなぐまち」で生きていく》がふと頭をよぎる。[写真2〜3枚目]「あなぐまち」の全住人のドローイング800枚が、展示空間の壁面をぐるりと覆う。[写真4]《ナッツファクトリー》(2021年/段ボール、石塑粘土、木材、プラ板、針金、建築用パウダー、木工用ボンド、アクリル絵の具、防水材)[写真5枚目]立体作品をつくってから平面の絵本に落とし込む手法で制作するつんさん。個展では、立体作品と絵本原画が向かい合うように展示された。

 誰とも共有できない、理解されないと思っていた世界を、あちこちにぶつかりながらも「つくる」という営みによって守り続けたつんさん。それは、作家としての揺るぎないアイデンティティーになりました。そんなつんさんが、学生時代の自分に声をかけるとしたら――?
「“そんなに頑張らんでいいよ。人生は一度きりなんだから、楽しもうよ”って言ってあげたいです。当時の私は、さまざまなプレッシャーを感じて、頑張らない自分には価値がないと思っていたし、人生をコントロールしようとしていました。でも、目の前で起こることに『良い』も『悪い』もなくて、それに意味づけをするのは自分なんですよね。人は、そこに存在しているだけで価値があるし、想定外に起こることも『これが最善なんだな』と思って自然の流れに身を任せれば、生きやすくなる。そんなことに最近気がつきました」





共感してもらえるような形で広がっていく仕事がしたい

INTERVIEW

卒業から5年目

共感してもらえるような形で
広がっていく仕事がしたい

 成安造形大学でグラフィックデザインをイチから学んだ今川さん。卒業制作では、大津市の在宅医療サポートチーム「チーム大津京」との出会いを機に、自分らしい最期を迎えるために、医療やケアに対する自分の意思を家族や医療チームと話し合う大切さを伝える絵本を制作しました。
 そして、卒業制作から5年の歳月を経て、今川さんの絵本は『サイ五郎さんちの人生会議』というタイトルで2023年6月に出版されたのです! どのような経緯で出版に至ったのか、大学生活を振り返ってもらいながら今川さんに話を聞きました。

今川ゆみさん

デザイナー

1995年、滋賀県生まれ。2018年成安造形大学メディアデザイン領域(現:情報デザイン領域)グラフィックデザインコース卒業。大学でデザインを活かした課題解決やアプローチに関心を持ち、卒業制作で初めて絵本を制作。地域デザインに関われる仕事がしたいという思いから、京都のホームページ制作会社でWebデザイナーとして活躍。絵本の出版を機に、現在はイラストも描けるデザイナーとして新たな一歩を踏み出している。



成安でビジュアル制作だけじゃない
デザインの定義の広さを実感

Q.01

今川さんはもともと美術が好きだったんですか?

 小さい頃から絵を描くのが好きで、描いた絵を親や保育園の先生に見せると褒めてもらえるのがうれしかったのを覚えています。中学校では美術部に入部し、はじめて先生から指導を受けて、絵を描くことがますます好きになりました。高校は芸術系の高校に進学。ファインアートを学び、中でも油絵が好きで高校3年間は絵を描くことに没頭していました。


Q.02

成安で洋画ではなくグラフィックデザインを選択したのはどうしてですか?

 絵を描くことは自分自身と向き合いながら自分の内側を表現することなので、だんだんその作業が苦しいと感じるようになっていました。高校でそれを経験したので、これからは社会とつながりながら何かをつくりたい、自分が外に向けてコミュニケーションを取れるものがいいという考え方に変わり、デザイン学科がある大学に進路を変更。画塾の先生に成安を教えていただき、琵琶湖が見えるキャンパスのおだやかな空気感が自分の感覚に合うのを感じて成安を選びました。


Q.03

デザインをイチから学ぶことは楽しかったですか?

 グラフィックデザインに必要なIllustratorやPhotoshopなどのDTPツールが全く使えない状態で入学したので、最初はパソコンでの制作に苦労しました。扱う道具が筆からキーボードとマウスに変わり、課題をこなすために必死で制作していると、絵を描いてきたことはデザインをする上でビジュアル制作に活きているのを感じました。入学当初はビジュアルをつくることがデザインだと思っていましたが、サービスデザイン※1 の授業でデザインの定義の広さを実感し、ますますデザインをするのが楽しくなりました。


社会の困り事に対して
よりよくできるものをつくりたい

Q.04

大学時代を振り返ると、どんな学生でしたか。

 大学生のうちにいろんなことをやりたいと思って、自分のアンテナに触れたところへ積極的に足を踏み入れていきました。京都のアパレル会社のインターンシップに行ったり、サービスデザイン系の勉強会に参加したり、福祉施設でアルバイトをしたり。自分にとって新たな社会とつながれる経験は、デザインを必要としてくれる人を知る機会にもなりました。
 大学の教授で、グラフィックデザインがご専門の大草真弓先生は、医療系のプロジェクトを数多く手がけられていて、リハビリロボットのUI※2 やお薬手帳のデザインを提案するプロジェクトに参加させてもらいました。大草先生から受けた影響はとても大きかったです。


Q.05

卒業制作で絵本をつくるきっかけになった「チーム大津京」とはどこで出会ったのですか?

  卒業制作のテーマがなかなか決められなかったのですが、社会の困り事をよりよくできるものをつくりたいという思いだけはありました。そんな時に、大草先生から「チーム大津京」さんをご紹介いただき、リビング・ウィル※3(生前の意思表明)について教えていただいて。「チーム大津京」さんでは、リビング・ウィルの認知を広めるために、わかりやすく劇にして動画を作成されていましたが、まだまだ認知されていない現状を知り、これを卒業制作のテーマにしようと決めました。


Q.06

絵本にしようと思ったのはどうしてですか?

 「チーム大津京」さんからいただいたリビング・ウィルの資料が文字だらけで、それを読んで理解するハードルの高さを感じたんです。誰にでもやさしく伝える方法として、最初は図解した説明書みたいなものをつくろうと思っていたのですが、誰かが主人公になって読者と一緒に理解を深めていく流れのほうがわかりやすいと思い、絵本をつくることにしました。


今川さんが手がけた卒業制作。読者と一緒に、主人公のサイ五郎さん(65歳)がリヴィング・ウィルの理解を深めていくストーリーになっている。


Q.07

絵本をつくったことはあったんですか?

 絵本をつくるのは初めてだったのですが、1ヶ月で完成させたので大草先生も驚いていました(笑)。ストーリーもキャラクターデザインも絵本のデザインも全て一人で手がけたのですが、中でもイラストを描くのが大変でした。ユーモアを感じるイラストのほうが親しみをもちやすいと思ったので、どんなシーンを絵で表現するかはけっこう悩みましたね。


クラウドファンディングで
「人生会議」への興味を実感

Q.08

『サイ五郎さんちの人生会議』が出版されることになった経緯を教えてください。

 「チーム大津京」の代表をされている西山順博先生が卒業制作展に来られたのですが、完成した絵本を読んですごくよろこんでくださって。その時に「出版できるように頑張ります」っておっしゃられて、いいご縁があったらいいなくらいに受け取っていました。ところがその後ずっと出版社を探してくださっていたみたいで! 卒業制作展以来お会いしていなかったのですが、2022年に「出版社が見つかった」と連絡をいただいた時は本当に驚きました!


Q.09

絵本出版に向けてどんな流れで進めていったんですか?

 2022年の6月と7月あたりから制作がスタートしました。日本医療企画さんという出版社さんから出せることになり、出版社のご担当者、西山先生、サポートで大草先生も入ってくださることになってとても心強かったです。当時はコロナ禍で対面ではお会いできなかったのですが、Zoomのオンラインミーティングでご挨拶をさせてもらい、修正などもオンラインミーティングでお聞きしました。大草先生、西山先生をはじめとする「チーム大津京」のみなさん、出版社のご担当者がいろんな意見をくださって方向性が定まっていき、2023年3月にはほぼ完成して印刷ができる状態になっていました。


人生会議で話しあうべき内容のお題が書かれた人生カード。卒業制作時は10枚だったが、絵本の出版にあたり「チーム大津京」のアドバイスをもとに56枚のボリュームに。
株式会社日本医療企画 2023年6月30日発行 @Yumi Imagawa2023.Printed in Japan


Q.10

卒業制作から変更になった点や、出版社の担当者から受けたアドバイスはどういう内容でしたか。

 たくさん修正が入ると想定していたのですが、基本は卒業制作のままで大丈夫でした。出版社側からはプロの目線で見やすくするためにフォントのサイズを調整したり、キャラクターの服装の色を統一するアドバイスをいただきました。私が大学を卒業するころはリビング・ウィルという言葉だけでしたが、今は「人生会議」※4 という言葉も一緒に普及するようになって、卒業制作では『もしものときどう生きたい』というタイトルでしたが、出版社の方と相談をしてタイトルも変更しました。卒業制作のときは絵本と人生カードのみでしたが、新たに人生会議を記録する議事録と用語集もつくりました。


Q.11

絵本出版に向けてクラウドファンディングを実施されたのはどうしてですか?

 書店での販売だけでは届けたい人に届けられないだろうという話しになり、クラウドファンディングをすることになりました。大草先生が主導で進めてくださり、はじめてみると予想を上回る反響で驚きました。
  目標は印刷費用の半分をまかなえる120万円でしたが、最終的には320万円以上を達成! こんなにも応援していただけると思っていなかったので、みなさんが「人生会議」に興味を持ってくださっているのを実感しました。卒業制作でつくった絵本が、こんなカタチで広がっていくとは想像もしていなかったです。


目標を達成したクラウドファンディング。社会課題の一つでもある人生会議の重要性を発信する機会になった。


最期の希望を伝えられる世の中になると、
生きることはもっと楽しくなる

Q.12

完成した絵本を見てご自身の自己評価は? 絵本で一番気に入っているところもお聞きしたいです。

 難しいことや分かりにくいことをよりよいコミュニケーションの形にしていくこともデザインの役割だと思っているので、多くの人に興味をもってもらえるものがつくれたかなと思います。
  気に入っているのは、出版に際して新たに追加した「リヴィング・ウィルと人生会議」の項目のイラストです。主人公のサイ五郎さん(65歳)が家族で人生会議をしているシーンがあるのですが、こんな風に65歳になったら家族で人生会議ができる社会になったらいいなと思います。



Q.13

出版してからの反響や反応はどうでしたか?

 医療施設や介護福祉施設で絵本と人生会議カードを使ってワークショップを開いてくださっているとお聞きしています。職員の方が患者さんや利用者さんと一緒に人生会議を開かれているみたいなのですが、人生カードがあるとゲーム感覚で気軽にできるのがいいとおっしゃっていただいています。
 西山先生からはサイ五郎さんで次は認知症シリーズをつくってみたいというお声をいただいているので、サイ五郎さんに愛着をもってくださっている西山先生のお気持ちが本当にうれしいです。


Q.14

「人生会議」をテーマにした絵本をつくったことで、ご自身の価値観が変わったことはありますか?

 絵本のFacebookに読んだ方がコメントを寄せてくださっているのですが、自分の考えを伝える大切さはわかったけれど、家族や子どもに相談するのが怖いとか、自分から最期のことを伝えるのは難しいとおっしゃられていて、そこが課題なのかなって。人生の最期のことを話すことは縁起が悪いとか、タブーなことだと思われる方がいるのは、どう向き合っていいかが分からないからだと思うんです。でも、絵本をつくって思うようになったのは、自分の最期の希望を伝えられる世の中になると、生きることはもっと楽しくなるはず、ということ。人生会議は楽しく生きるためのものだという価値観になりました。



Q.15

今後デザイナーとしてどういう仕事をやっていきたいですか。

 商品やサービスに対して広めることや新たなイメージをつくりあげるブランディングの仕事に関わっていきたいと思っています。一人でも多くの人に共感してもらい、行動や心に影響をあたえられる仕事がしたいので、デザイナーとしてもっと経験を積んでいきたいです。

  • ※1 サービスデザイン…顧客体験のデザインのみならず、それを継続的に提供できる組織や仕組みもデザインすることで、新たな価値を創出する方法論のこと。
  • ※2 UI…User Interface(ユーザインターフェース)の略で、ユーザーとコンピュータとが情報をやり取りする際に接する、機器やソフトウェアの操作画面や操作方法を指す。
  • ※3 リビング・ウィル…自分がどんな医療を受けたいかを、自身であらかじめ意思表明しておくこと。
  • ※4 人生会議…自分が受けたい医療や介護に加えて人生観なども含めて、家族や親しい人、医療・介護・福祉職など支える人たちと元気なうちに話しあっておくこと。

コミュニケーションを デザインという”焚き火”で生み出す

INTERVIEW

卒業から12年目

コミュニケーションを
デザインという”焚き火”で生み出す

 ボッテガ・ヴェネタとのコラボレーションで世界的な注目を浴びたネオンサインをモチーフにしたループアニメーション、展覧会などのポスターやビジュアル、岡山のいちご農園のカフェの企画・運営。
 これらはすべて、奥山太貴さんの仕事。一見バラバラのようで、実はこの3方向のクリエイションは「デザインで通じている」と奥山さんは語ります。
 さまざまなボーダーラインを、”デザインの力”で飛び越える――。その背景にどんな学生生活、卒業後の道のりがあったのかを辿りました。

奥山太貴さん

アートディレクター・デザイナー/グラフィックアーティスト

1988年岡山生まれ。2011年にグラフィックデザインクラス卒業。東京、岡山、そしてインターネットの3つのフィールドでアートディレクター、デザイナー、グラフィックアーティストとして活躍するほか、地域や農業の課題に”いちご農家”として取り組む。


焚き火とデザインは似ている!?

奥山さんの仕事はアートワーク、ディレクション、デザインなどメディアを問わず多岐にわたる。
[写真1・2枚目]BOTTEGA VENETAのデジタルジャーナル『ISSUE 03』の表紙&裏表紙を飾ったアートワーク
[写真3枚目]劇団子供鉅人「不発する惑星」公演のポスター・フライヤー
[写真4枚目]ほぼ日(ほぼ日刊イトイ新聞)「生活のたのしみ展」サイトディレクション・デザイン
[写真5枚目]実家の家業である「奥山いちご農園」のリブランディング、カフェの企画・運営にも携わる。

「デザインは仕組みづくりだな、と思うんです。例えば、東京で企業のブランディングをしたり、展覧会などのビジュアルをつくったりするとき、伝えたいメッセージをどう届けるか。いちご農家の場合は、いちごとお客さんがどう出会うのが幸せなのか、つながりを生むためには何が必要なのか。どの仕事においても、コミュニケーションが軸にあるような気がします」

 奥山さんが「デザイン=コミュニケーションを生むための仕組みづくり」とはじめて意識したのは、成安造形大学に入学して間もない頃だったそう。

「新入生歓迎会のバーベキューのとき、なかなか火がつかなかったんですよ。炭を並べて、何度火をつけて頑張っても、一向につかない。そのとき、教授がポロッと『それもデザインですからね』と言ったんです。当時は『わけわからんこと言わず、手伝ってくれよ』と思いましたが(笑)、ずっとそれが心に引っかかっていて。あとになって、炭や薪の組み方や、火のつけ方によって勢いのある火を起こすこともできれば、じわじわ燃える火を起こすこともできると気づいたんですよね。どんな方法で、どんな火を起こすかによって、バーベキューだったら肉の焼き上がりも変わるし、キャンプファイヤーだったら場の雰囲気も変わる。いわば、デザインは『火起こし』で、その火によって生まれる諸々の事象がコミュニケーションだなと。これは今の働き方の基本になっていますね」

 モノやカルチャー、ブランド、場所と人とのコミュニケーションを軸に、それが届くまでの仕組みそのものだったり、印刷物やコンテンツだったり、空間やコミュニティだったり、最適な方法で火を起こしていく。それが奥山さんの「デザイン」です。しかし、もともと人見知りだった奥山さんは他人とのコミュニケーションが苦手だったそう。


奥山さんの仕事部屋の片隅には、本やマンガが山のように積まれている。中学生の頃から遊び場所は古本屋。「はじめて彼女ができても、デートは古本屋でした。一緒に古本屋へ行くけど、あとは店内で別行動。今思えば、そんなデートないなって思うんですけど(笑)、そのとき一緒に古本屋に行っていた彼女が今の妻です」

「高校にあまり行っていなくて、家でずっとラジオを聞いたり、マンガを読んだりしていて、勉強もしていなかったんですよね。美大に行きたい、とデッサンはやっていたけど、学力がないので筆記試験がある大学は難しい。そもそも出席日数が足りず高校を卒業できるかも怪しかったんですが、美大のことを調べてみたら成安造形大学の推薦枠が条件にあてはまっていた。ここなら行けるかもしれない、そんなきっかけで成安造形大学を選んだんです」



創作活動の根幹にあった
コミュニケーション欲

 
 高校時代から、ラジオや音楽、本やマンガなどを通してサブカルチャーにどっぷり浸かってきた奥山さん。成安造形大学在学中に、フリーペーパー『純真MOOK』(2009-2010)を友人と創刊します。

「雑誌を制作するエディトリアルデザインの授業で、僕の作品を読んでくれた同級生が『おもしろいから、ページを持ったらどう?』と、学生たちが制作している学内新聞サークル『こえ』に誘ってくれたんです。そこでも楽しく制作していたんですけど、もっと自由に表現するなら自分でメディアをつくるのがいちばんいいなと。ファッションデザインクラスの友人を誘ってはじめました。ちょうど、ネット印刷がだいぶ安価になってきた時期で、冊子をつくるのに昔ほどお金がかからず、手軽につくれるようになっていたのも大きいと思いますね」


毎号見開き(2P)を担当していたという『こえ』。ページをめくっていると、異彩を放つ見開きで手がとまる。ビジュアルのインパクトはもとより、学内の展示場所をジャックする企画や勢いのある文章まで、こだわりと熱量がページから溢れ出ている。

 『純真MOOK』のテーマは、”僕からあの子へのフリーマガジン”。人見知りな奥山さんは、”誰か”に向けてコミュニケーションを取るための何かをつくりたかったのだそう。
「フリーペーパーなら、『つくったので読んでください』と人に直接渡すこともできるし、落ちていたら誰かが拾って読むこともあるだろうし。ネットだとなかなかできない直接のコミュニケーションと、偶発的なコミュニケーションが生まれるのがいいなと」


『純真MOOK』創刊号の特集は「出会う」。どうすればかわいい女の子との出会いが生まれるか? が詰まった100本のショートショート企画も。2号目の撮影用に鉛筆で制作したタイポグラフィのラブレターは、『純真MOOK』とともに卒業制作作品となった。

 編集やエディトリアルデザインに興味を持っていたため、卒業後はブックデザインの会社で雑誌や本に関わる仕事をしたいと考えていた奥山さんは、ポートフォリオ制作に力を注ぎます。完成したポートフォリオは”奥山図録”ともいえる、2冊組の大作に。
「本末転倒なんですけど、つくるのが楽しくなっちゃって、完成した頃には就職活動時期が終わっていたんですよね(笑)。しかも、紙や製本にも凝っていたから、あんまり量産できなくて、いろんなところに送ることもできない……。だから、就職活動は1社だけ面接を受けただけなんです」


1冊はアナログでWEBを表現した作品や、実家の「奥山いちご農園」のロゴやパッケージデザインの仕事などを、ビジュアルだけで見せるもの。もう1冊は内容を説明した副読本の2冊組のポートフォリオ。凝った装丁は、ポートフォリオというより、作品集。


新しいカルチャーに触れる居場所と仕事。
それぞれが教えてくれたこと

 就職先が決まっていなかったものの、卒業後は東京に行くと決めていた奥山さんでしたが、卒業式当日に東日本大震災が起こり、一度岡山県の実家に帰ることになりました。実家は奥山さんの祖父の代から続く「奥山いちご農園」。いちご農家の最盛期を手伝い、春を迎えて上京しました。

 上京後は在学中に制作していた『純真MOOK』が縁で、日本初のフリーペーパー専門書店「ONLY FREE PAPER」に携わりながらWEB制作会社で働きはじめます。

「『ONLY FREE PAPER』に携わるなかで友達もできて、少しデザインを頼まれたりすることもありましたが、生活をしていると当然お金がなくなっていく。新しいカルチャーを支えるには、フィジカル的にも、メンタル的にも、金銭的にも、体力がいるんです。僕を含めて、『ONLY FREE PAPER』が居場所になっている人はたくさんいたし、なんとか守りたいという気持ちも強かったですね。もともとWEBは全然つくっていなかったのですが、紙のように印刷費がかからないこともあって、独学でつくるようになって。ただ、独学だと手詰まりを感じたのでWEB制作会社に就職しました」


 週のうち5日は会社に行き、終業後や土日には「ONLY FREE PAPER」へ足を運ぶ日々。この頃を振り返り、奥山さんは「仕事をして労働の対価に社会性と報酬を得る一方で、『ONLY FREE PAPER』というオルタナティブでインディペンデントな実験場で新しい可能性を広げていく。自分のなかではバランスが良かった」と語ります。
 しかし2013年8月、渋谷パルコ(当時)にあった「ONLY FREE PAPER」が閉店。同時にWEB制作会社も退職。デザイナーとして、グラフィックデザインをもう一度きちんと学びたいという気持ちから、デザイン事務所で働き始めるも折り合いが悪く1ヶ月で解雇されてしまいます。

「中高生の頃は、こんな僕でも社会でやっていけるのだろうか?と不安に思っていたんですけど、WEB制作会社で働いたり、『ONLY FREE PAPER』で新規事業やイベント企画、店舗運営をやったりして、意外と僕は社会に出てもやれるぞと思っていたところだったので、結構ショックは大きかったですね」


「ONLY FREE PAPER」のCI(コーポレート・アイデンティティ)を制作。名刺や各種ビジネスツール、イベントの告知物から店頭POPに至るまで、すべて一人で担当した。

 その1年後、「ONLY FREE PAPER」が移転再開することになり、奥山さんに再び声がかかります。「ONLY FREE PAPER」が入居したJR高架下の商業施設を企画・設計・運営する会社と出会い、場づくりを行うその会社で働くことになりました。

「その会社はクリエイティブ、建築、編集、マーケティングなど、小さい規模ながらいろんなセクションがあり、まちづくりを考えたり、設計した施設のためにコミュニティをつくったり、イベントや冊子を企画したりと様々な施策を総合的に手掛けていて。そこで人とまちの関係や、その仕組みづくりなど、いろんなことが学べたと思っています」

 ここでの経験が、奥山さんが後に実家の家業でもある「奥山いちご農園」をリブランディングすることにも繋がります。


実家のいちご農園が抱える切実な課題を
新しい仕組みで解決

 実家に帰省したとき、奥山さんは両親が深夜1時まで働き、早朝5時に起きるという状況を目の当たりにし、「いつの間にこんなことに? どうにかしなきゃダメだ」と決意します。解決方法を模索しますが、末端の作業のやり方を変えても、根本的な問題の解決には至らない――。生産者→JA→市場→小売店→消費者という、収穫してから消費者の手に届くまでのスパンが長い流通方法も、「奥山いちご農園」にはフィットしていなかったことに気づいた奥山さんは、新しい仕組みに挑戦します。

「一般的にスーパーなどで流通しているいちごは、収穫してから消費者に届くまでのスパンが長く、熟す前の少し青い時期に摘んで流通の過程でだんだん赤く追熟させるのですが、それでは糖度が上がらないんです。それに対して、実家のいちご農園では完熟したものだけをこだわって収穫しています。ただ、それだと足が早くて鮮度が落ちやすい。市場へ直接卸すのと直売の両軸でやっていましたが、早朝から収穫して、流通に乗せるための規格に沿ったパック詰めをしながら接客もして、というのは大変です。直売率をあげれば、規格にとらわれずにたくさんのいちごを詰められるし、そしてなにより、いちごをいちばんおいしい状態で届けられ、お客さんにもきっと喜んでもらえると考えました」


真っ赤に熟したおいしそうな「奥山いちご農園」のいちごが、学生時代に奥山さんがデザインしたロゴがあしらわれた箱にきっちりと並ぶ。しかし、規格に合わせて粒をそろえ、ひとつひとつパック詰めする作業は大きな負担となっていた。

 直売率を上げるためには、新しいお客さんと出会い、購入してもらう必要があります。そのために、直売所と一緒にカフェをつくることにしました。
「カフェができれば、かたちが良くないいちごも加工して、お客さんに新しい楽しみ方の提案をすることができます。これはブランドをどう大切にするかという、ブランディングの話になるのですが、いわゆる”B級品”みたいに、かたちが良くないいちごを安く販売してしまうと、それを目当てにする人が増えて、ちゃんと売れるものが売れなくなってしまう。生産している農家が自分たちで加工して、販売まで手がまわるようになれば、いろんな問題が少しずつ改善されるのではないかと仮説を立て、リブランディングをしていきました」


直売所でしか買えない、箱にごろっと詰められた完熟の朝採れいちご。どこか、いちごがのびのびとしているように感じられる。カフェ「plate」はオープン初日から大盛況。定番になったジャムやシロップのほか、DEAN & DELUCAとのコラボレーションで生まれた、砂糖を極限まで控えた完熟いちごジャムも毎年すぐに完売する人気商品に。

 2016年から月に1週間は岡山、残りの3週間は東京の二拠点になり、準備を進めること約1年。その間に、会社も退職し、独立。2017年にオープンした直売所兼カフェ「plate」は、初日の2日間で440名が来店し、夕方にはいちごも完売。
「それまで深夜までパック詰めに追われていたのに、夕方にはいちごがなくなったので『今日はもうやることがないぞ!』と、みんなで焼肉を食べに行きました。この時間に夕飯が食べられる! しかも外食だ!! って(笑)」

 奥山さんが新しい炭の置き方を考え、起こした火に多くの人が集まりました。今では直売率100%。どこにも卸しておらず、購入できるのは「奥山いちご農園」の直売所のみ。遠方から訪れる人も増え、オンラインで購入できるジャムもシロップも発売早々に完売。毎年販売時期を待ち望む「奥山いちご農園」ファンが全国にいます。


インターネットの世界は、フリーペーパーと似た
早くてシームレスなコミュニケーションを可能にする

 2021年、ボッテガ・ヴェネタが手掛けるデジタルジャーナル『ISSUE 03』の表紙&裏表紙と誌面を奥山さんのアートワークが飾り、同年のボッテガ・ヴェネタ秋冬コレクションの広告メディアセットも制作。大阪・阪急うめだのポップアップでは、奥山さんの作品を中心としたネオンディスプレイで構成されました。


2021年、阪急うめだ本店ポップアップストアで展開された奥山さんのネオンインスタレーション。

 ボッテガ・ヴェネタからのオファーに繋がったのは、奥山さんがまだWEB制作会社に勤務していた頃、フリーペーパーのような「速く」「垣根のない」コミュニケーションをネットの世界に見出してはじめた自身のWEBサイトが起点でした。

「フルタイムで働く合間の息抜きと、自身のアイデアのスケッチ的に、制作した自分のグラフィックをネット上にスクラップする『noichigo_source』を始めました。当時、音楽のネットレーベルが自由にリミックスできるようにフリーで音源素材をリリースしていたり、『Tumblr』も流行っていて、フリーカルチャーの速くてシームレスなコミュニケーションっておもしろいなと思っていたので、グラフィックでもできないかな?と。自分のグラフィックをIllustratorやPhotoshopのデータごとダウンロード可能にして、クリエイティブ・コモンズ・ライセンスをつけて自由に使えるようにしたんです」


2013年6月に開設した「noichigo_source

 この「noichigo_source」に素早く反応したのは、海外のクリエイターたちでした。デザイナーが奥山さんのグラフィックを素材に新しい作品をつくったり、写真家がポートレートとコラージュしたり、ネットレーベルがアルバムジャケットにしたり。二次創作、三次創作が次々と生み出され、ロンドンのクリエイティブサイト「It’s Nice That」に取り上げられます。

「その後、また『It’s Nice That』から『クライアントワークが見たい』とリクエストがあったので、友人のバンドのデジタルフライヤー兼VJ用として制作した最初のネオンのアートワークと、成安造形大学で開催された展覧会『Playing BODY Player』でのアートワークを送り、掲載されました。それから海外のいろんなメディアに取り上げてもらうようになったんです。どこからどういう経緯で見てくれたのかはわかりませんが、4年後にイタリア・ミラノにあるボッテガ・ヴェネタのクリエイティブチームから連絡がありました。やっていれば見てくれている人はいるし、いいものをつくれば返ってくるんだなと、思いました」

 インターネットのフリーカルチャーシーンに興味を持ち、そこに放った小さな火種が少しずつ広がり、大きな炎となっていきました。


『It’s Nice That』に掲載された成安造形大学「キャンパスが美術館」の展覧会、2018秋の芸術月間 セイアンアーツアテンション11『Playing BODY Player』のアートワーク。


“えいやっ!”と壁を越えれば世界は広がる。
学生時代から持ち続けた「勝手にやる」精神





 まるで”フリーカルチャー”のように、ローカルとグローバルを自在に行き来しながら、あちこちで”焚き火”を起こす奥山さん。学生時代の自分に贈るアドバイスをたずねてみると――。

「学生時代、自分のなかで決めていたテーマが『勝手にやる』だったので、たぶん当時の僕に声をかけても聞いてくれないと思います(笑)。今思えばですけど、あの頃って子供から大人になる時期で、何か始めるときに『親や先生、偉い人の承認を得ないといけない』って勘違いしやすいんです。それで何もできなくなる人を見てきたこともあって、『勝手にやること』が必要なんだなと気づいたんですね。だから、フリーペーパーをつくっていろんなところで配ったり、勝手にやっていました。『noichigo_source』をつくったときも勝手にやったから、遠く離れた海外の人にも届いた。しがらみの多い農家が組合や流通を離れてお店をやるのもそう。今でも、『勝手にやる』は自分のなかに持っていることです。きっと、何かにつながるから、あの頃の僕にはできれば声をかけないようにして『それでいいぞ』と、ほっときます」

“好きなもの”を手放さなかった結果 辿り着いた「漫画家」という職業

INTERVIEW

卒業から15年目

“好きなもの”を手放さなかった結果
辿り着いた「漫画家」という職業

現在(2023年8月時点)『good!アフタヌーン』(講談社)にて漫画『うちの師匠はしっぽがない』を連載中のTNSK(ティーエヌエスケー)さん。同作コミックスは11巻まで刊行、アニメ化もされている人気作。
しかしながら、TNSKさんは大学時代洋画クラスに在籍。在学中は漫画家になろうとも、イラストレーターになろうとも全く考えていなかったそう。
「もっといい道があったかもしれないけど、失敗しないとわからなかった」と振り返る、TNSKさんの大学時代から現在を追いました。

TNSKさん

漫画家/イラストレーター

1984年大阪生まれ。2008年に洋画クラス卒業。2009年『時ドキ荘』(電撃コミックスEX)で漫画家デビュー。5作目となる『うちの師匠はしっぽがない』(『good!アフタヌーン』にて連載中)が「次にくるマンガ大賞2020」ノミネート、2022年にアニメ化。

興味を持ったら掘り下げる。
生粋の”オタク気質”ゆえの洋画専攻!?

 大正時代の大阪を舞台に、上方落語を題材に繰り広げられる漫画『うちの師匠はしっぽがない』。2019年から『good!アフタヌーン』(講談社)で連載をスタートし、現在も続く長期連載作品となっています。2022年にはアニメ化もされた本作。上方落語家の桂米紫さんが本作を読んで「僕は泣きました。電車の中で。」とツイートし、漫画好きのみならず、落語ファンにも注目され、話題を呼んでいます。


主人公・まめだは、後に師匠となる大黒亭文狐の高座に衝撃を受け、落語家を目指す豆狸の女の子。まめだが落語の沼に引き込まれていくのと同じように、上方落語ならではの「音」が聞こえてくるような表現は、物語が進むにつれ、読んでいるこちらもどんどん上方落語に興味が深まっていく。(『うちの師匠はしっぽがない』(講談社)/アニメはAmazonプライム・ビデオ、U-NEXT、FOD、Hulu他で配信中)


 大学時代から漫画を描きまくっていたのかと思いきや、TNSKさんが卒業したのは洋画クラス。油絵でキャラクターなどを描いていたわけでもなく、在学中は抽象画を描いていたそう。
「小学生から中学1年生くらいまでは、アニメやゲームの絵のようないわゆる”オタク絵”を描いていたんですけど、当時(90年代)はまだ”オタク”はちょっと異端扱いだったので、描くのをやめたんです。同じくらいの時期にギターを弾きはじめて高校生になり、いろんな海外のバンドを知るうちにCDジャケットのアートワークを『かっこいいな』と集めだして。そうすると、よく思い出せないんですけど、『アートっていいね』みたいな話をバンド仲間でもして、ベタですけどマネやモネ、ピカソを観に展覧会に行っていました。美大を目指したのは、当時観た映画の主人公が絵画修復師で、『かっこいいな』と思ったからです(笑)」


TNSKさんがまだ漫画を描き始める前、卒業制作展で発表した作品(2007年)。「さすがにもう記憶が定かではないですが、当時は確か”都市”について描いていたような気がします。ただ、十数年ぶりにこれを見て、レイアウトや画面の埋め方のやり口が今でも変わっていなくて笑いました」とTNSKさん。


 洋画クラスに入学したものの、半年ほどで周囲とのズレを感じはじめたTNSKさん。
「みんな本当に絵が上手で、今思えば逃げただけだと思うんですけどね。多分、油絵を描くことが好きじゃなくて、みんなみたいに、毎日朝から晩まで描く情熱がない。それで3年生くらいからバンド活動のほうに打ち込むようになりました。当時の思い出は遊んでいる記憶しかないのですが(笑)、家にいるよりも楽しかったので、毎日大学には行っていましたね」

原点に立ち戻り
人気絵師から漫画家デビューへ

 卒業後は就職せず、友人に薦められて観たアニメ作品を機に自分が本当に好きだったものを思い出し、イラストをイラストコミュニケーションサービス「pixiv(ピクシブ)」に投稿し始めます。



[写真1枚目〜2枚目]pixivに投稿し始めた2008年の作品。
[写真3枚目]人気オリジナルキャラクター”高木さん”。2015年のコミケで発表されたビジュアルは、タイポグラフィとの組み合わせも印象的。
[写真4枚目]背景の描き込みに惹き込まれる2015年の投稿作品。


「大学のときはまわりの目を気にして、自分がやりたいこと、好きなことを見失っていたようにも思います。当時はまだ”俺はオタクなんだ”って、胸を張って言えるような感じではなかったですし……。でも、ネットの世界なら、まわりの目を気にせずに実験的に利用できる。最初はお絵かき掲示板みたいなところでドット絵のキャラクターを描いてみたら『かわいい』と言ってもらえて。そこで多分、承認欲求が満たされる瞬間があったんでしょうね。当時はプロになるつもりはなかったんですけど、pixivができて、ランキングが上位になっていくのがうれしかったですね」


2013年のコミックマーケットで販売したイラスト・CC集。


「成安造形大学で学べて良かったなと思うのは、デザインだったりアートだったり、たくさんの作品に触れることで『これはダサい』『これはいい』みたいに、振り分ける能力が身についたことです。今でこそオタク×デザインで新しい価値観が定着しましたが、当時はまだそういったことの創世記でハイセンスなものは少なかった。絵があまり上手くない中で出てこられたのは、おそらくそういった部分で差別化ができていたから注目されたのだろうと思います」


 ネットを通じて、クリエイター同士の交流も生まれ、仕事の依頼も寄せられるようになったTNSKさん。ゲーム会社に就職した大学時代の友人と久しぶりに再会した夜、思わぬ展開が待っていました。
「友人が『pixivってサイトがあって、この人の絵が上手でさ』と話題に出した、その絵を描いている人と実は繋がりがあったんです。そのことをポロッと漏らしてしまい、そこから激詰めされて身バレしました(笑)」。
思いがけないところで繋がった「好きなこと」の連鎖。それはまた、TNSKさんの創作活動が広がり、後押しするきっかけにもなりました。



 そんな中、雑誌での漫画連載の声がかかり、4コマ漫画『時ドキ荘!』(アスキー・メディアワークス)の連載がスタート。それまで漫画を描いたことがなかったTNSKさんでしたが、フルカラーで1週間に8本を制作する日々が始まりました。
「なにせ初めての経験だったので、やり方も、つくり方も手探りで挑んでいました。当時は本当にダメダメだったんですけど、途中でちょっと展開が生まれてきて、描きたいことが出てきたんですよね。後半は、体裁は4コマなんですけど、もうそれを飛び越えてストーリー漫画になっちゃってました(笑)」

「やりたいことは絶対に曲げないで」
背中を押した編集者の言葉

 デビュー作の連載が終了する頃には、「物語をつくるのは楽しい。漫画を描くのは向いているかもしれない」と感じていたTNSKさん。続けざまに『ブラック★ロックシューター THE GAME』(KADOKAWA)、『カラスマ0条探題』(ワニブックス)、『あいどるスマッシュ!』(講談社)を手掛けた後、現在連載中の『good!アフタヌーン』(講談社)から声がかかります。
「4作目を手掛けた時点で、売上も伸びていなかったし、かなりストレスも溜まっていて、『次の作品でダメだったら漫画家を辞めよう』と思っていました」



 TNSKさんが作品の題材に選んだのは、上方落語。
「バトルものやファンタジーを期待していたであろう担当編集者に提案したら『落語!? 正気か?』みたいなリアクションでした(笑)。でも、最後かもしれないし、やりたいことをやろうと思いました」

 1話をしっかり描き込んで提案したところ、編集者のリアクションも上々。
「思い出深い話がひとつあって。講談社にご挨拶しに行ったとき、チーフの方に『我々も色々と口うるさく言うこともありますが、あなたのやりたいことは絶対に曲げないでください』と言われたんです。当時は、やりたいことがなかなか実現できないもどかしい環境で悩んでいたこともあって、その言葉が泣きそうになるくらい、すごく嬉しくて『この部署の力になりたい、恩返しをしよう』と。今もそう思いながら描いています」

 コミックスの3巻が刊行された頃、『うちの師匠はしっぽがない』は「次にくるマンガ大賞2020」にノミネート。TNSKさんは自主的にこれまでの繋がりからクリエイターたちに声をかけ、プロモーションビデオを制作し、これが注目を集めます。


ショート落語アニメとしてアップした動画は、400万回再生超え(2023年8月現在)。「この動画が目にとまって、アニメ化の話になったようです」とTNSKさん。


 アニメ化、海外版も刊行され、「連載開始時は4巻くらいで終わると思っていた」というコミックスも現在(2023年8月)11巻まで発売中。「上方落語を『面白い!』と思った初期衝動が消えないうちに描かないとダメだなと思っています。今はやりたいことを100%やらせてもらえている状態で、世に出せている。つまり、誰かのせいにまったくできない状況になりました。誰にも明日のことはわからないですけど、必要とされているうちは漫画家を続けたいなと思っています」

失敗からしか学べない。
「恥ずかしい過去をたくさんつくってください」


 大学時代、まわりの目を気にしすぎるあまり”本当に好きなこと”を誇れなかったTNSKさん。しかし、卒業後に自分のルーツに立ち戻り、コツコツと発表し続けた結果「やりたいことは絶対に曲げないでください」と背中を押してくれる人にも出会うことができました。そんな今、大学時代の自分にかける言葉を尋ねたところ、「そっと放置しておく」との答えが。
「絶対に『こうしたほうがいい』と言われたら、やらないんですよ。今もそうですけど義務感が嫌いな性格なので『やらなきゃいけない』と思うと、何もできなくなってしまう。学生時代の自分はカッコつけていましたし、実力もないのに口だけ達者でイヤな奴(笑)。これまでたくさん失敗してきましたが、僕の場合は失敗しないとわからなかった。若いうちにいっぱい失敗してほしいので『イキリ散らかしたそのまま行ってください。そして恥ずかしい過去をたくさんつくってください』と言いますね」

誰も見たことのない風景を立ち上げる仕事。 世の中を変える作品の力を信じて

INTERVIEW

卒業から18年目

誰も見たことのない風景を立ち上げる仕事。
世の中を変える作品の力を信じて

抽象的なイメージや言葉を汲み取り、見たことのない風景を現実世界に立ち上げるのが、現代アートチーム・目 [mé] で「インストーラー」の役割を担う増井宏文さんの仕事。
「瀬戸内国際芸術祭」や「大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ」などの国際展で勢力的に作品を発表するほか、「さいたま国際芸術祭2023」ディレクターに就任するなど、目 [mé] として多忙な日々をおくる増井さんですが、今日までの道のりは紆余曲折。
大学時代、そして卒業後のターニングポイントを振り返りながら、制作を続けられた背景に何があったのかを伺いました。

増井宏文さん

現代アートチーム・目 [mé] インストーラー

1980年滋賀県生まれ。2004年に映像クラス卒業後、研究生を経て創作活動を続ける。2006年に南川憲二氏とwah document(ワウドキュメント)として活動。2012年、荒神明香氏、南川憲二氏とともに現代アートチーム・目 [mé] を結成。


互いの能力を認め合うチームで
自分の仕事を全うする

目[mé]《まさゆめ》, 2019-2021, Tokyo Tokyo FESTIVAL スペシャル13(photo by 津島岳央)


 2021年7月16日、東京・代々木に突然現れた大きな顔。「なんだこれは!?」と、SNSで多くの人が写真を投稿して話題となりました。これはアーティストの荒神(こうじん)明香さん、ディレクターの南川憲二さん、そしてインストーラーの増井宏文さんによる現代アートチーム・目 [mé] によるアートプロジェクト《まさゆめ》。東京都とアーツカウンシル東京(公益財団法人東京都歴史文化財団)による公募にエントリーし、2000件以上の応募から選出され、実現したプロジェクトです。

 目 [mé]の特徴のひとつが、3人がそれぞれ異なる役割を担っているチームであること。プロジェクトの起点となるイメージやアイデアの種は荒神さんから発せられ、それを南川さんがコンセプトなどの肉付けを行いディレクションし、増井さんの役割はイメージをかたちにしていくことだと言います。一般的に、美術の世界で「インストーラー」とは「作品の展示設営をする人」という意味で使われますが、増井さんの肩書きである「インストーラー」は、従来の言葉の意味とは異なります。



[写真1枚目]巨大なおじさんの顔を宇都宮の空に浮かべたプロジェクト。目 [mé]《おじさんの顔が空に浮かぶ日》,
2013 -2014, 宇都宮美術館 館外プロジェクト(photo by 笹沼高夫)
[写真2枚目]国道沿いの旧店舗にあたかもそこに実在していかのようなコインランドリーを出現させた。目 [mé]《憶測の成立》, 2015, 越後妻有トリエンナーレ[写真3枚目]空き家を展示室へと改装した作品。2022年7月からは十和田市現代美術館のサテライト会場として活用されている。目 [mé]《space》, 2020, 十和田市現代美術館(photo by 小山田邦哉)


「アーティストとしての才能を持つ荒神と、ディレクションの才能を持つ南川と、イメージをかたちにする力や場をつくることが得意な僕とで、それぞれのクリエイティビティをいかしながら一緒にやってみようと南川が呼びかけて、そこから長い時間をかけて話し合い、目 [mé]はスタートしました。僕の仕事は、荒神と南川が考えたプランをドローイングやコンセプトが記された企画書などから読み解くところから始まります。企画書を見て『むちゃくちゃ面白いやん!』と思えば、どうやってつくろうかな? と考えますし、ピンと来るものがなければ2人に質問して、3人が『これは面白くなるかも』と納得できるまで話し合うこともあります。まだ見たことのない、抽象的なイメージやコンセプトを自分の中にインストールして、見えるかたちにしていく。そういった意味で『インストーラー』という言葉を使っています」



「景色として広がる海を、遠くのものを近くでみるように表現するのに試行錯誤しました」と増井さんが語った作品。
目[mé]《景体》, 2019, 森美術館「六本木クロッシング2019展:つないでみる」(photo by 木奥惠三)


 さらりと仕事内容について語る増井さんですが、ドローイングや企画書の段階では、そのイメージは誰も見たことがないもの。スケール感、空間、形状、素材……etc, イメージを風景として立ち上がらせるには、あらゆることを具現化していかなければなりません。見たことがないものを、どうやって増井さんは制作しているのでしょうか?


増井さんが手応えを掴んだと話す《状況の配列》、2014、三菱地所アルティアム。
荒神さんのドローイングをもとに景色を立ち上げた。
設営中、はたまたバックヤードのような左右対象の2つの部屋(写真3、4枚目)を進んでいくと、
その先にぼんやりとした光が……。


「抽象的なものをかたちにしたのは《状況の配列》がはじめてでした。暗闇の先に、視認できるかできないかくらいのぼんやりとした光がある作品。信頼できるスタッフと一緒に昼夜を問わずあの手この手で何度も調光を繰り返して、ようやく作品のイメージをかたちにすることができました。「あぁ、つくるってこういうことか」と実感できた作品です。長年やってきてわかったことは、最初に”つくること”を意識しながらドローイングやコンセプトを見ると上手くいかないので、”自分がつくること”を考えないようにして見るようにしています。《景体》のドローイングを見たときも『ただ波をつくるのではなく、遠くの深い海がそこにある、ということが重要なんだろうな』と理解して。荒神と南川が言っていることで、例えば、山をつくるときに小さな木々をつくっていけば山にはなるけれど、それはジオラマでしかなくて『遠くの山』にはならない。それと同じで、波にとらわれると砂浜に打ち寄せる波のような”嘘っぽい波”ができてしまって『これは違うよなぁ』と。そこでスタッフとフェリーに乗って海を見に行って『あ、あれだ!』って(笑)。遠くの海をイメージしながら、それを手元にもってくるように制作しました」


自分たちでリノベーションした埼玉県にある目 [mé]のアトリエ。


 目 [mé]の作品はかなりスケールの大きなものが多く、制作は増井さんを中心に複数のスタッフとともに行うことが多いそう。制作スタッフとイメージを共有し、スケジュールやクオリティを管理するのも増井さんの仕事です。2012年に目 [mé]を結成してから現在までの制作メモが記されたノートには、設計図や素材のメモのほかに、円滑に制作を進めるための言葉も繰り返し書かれていました。


試行錯誤の軌跡が残る、数十冊にもおよぶ増井さんの制作ノート。


「特別教えてくれる人もいないし、自分のやり方が合っているかも不安だったし、どうやったらいいチームづくりができるのかを考えた時期もあって。よくスポーツの監督の書籍を読んだりもしました。制作スタッフといい関係性を築くことも、毎回つくったことがないものを制作することも、客観的な視点を持ちながらコツコツちょっとずつ進めるしかない。目の前に物質として存在するものが、作品になる瞬間があるんですけど、それをスタッフと一緒に共有できることが幸せですね」


いい作品をつくるために必要なことは
苦しくても、自分と向きあうこと


 目 [mé]は「さいたま国際芸術祭2023」ディレクターにも就任し、約2年先までスケジュールはいっぱい。2012年の結成以来、作品を発表するごとに注目度が増している状況ですが、そこに至るまではひと筋縄ではなかったようです。増井さんは研究生を経て卒業後、働きながら個人で制作を続けていました。友人たちと京都にシェアアトリエを借り、年2〜3回のペースで作品を発表していたあるとき、その後活動をともにする南川さんと出会います。

「当時、『すごい作品をつくりたい』と意気込んではいたものの、それがどんなものかわからない状況でした。卒業して2年後の2006年、wah documentを複数人のメンバーですでに始めていた南川に出会い、その活動に加わりました。」


[写真1枚目]wah27「グランドにお風呂」(2008年/協力:アーティストインスクール、東士狩小学校)。その名の通り、グラウンドに風呂をつくり、夜には北海道音更町東士狩小学校の家族が入浴した。
[写真2枚目]岐阜県大垣市で実施したwah31「照明器具を飛ばす」(2008年/協力:京都造形芸術大学 GALLERY RAKU)。


 wah documentの活動内容は、日本各地へ赴き、そこで一般募集した参加者とその場で出し合ったアイデアを実現していくというもの。「今思えば、自分が感動できるものは何か? というのを探していたような気がします」と増井さんが振り返るように、たくさんのアイデアの中からただ純粋に「面白い」と感じたものを次々とかたちにしていきました。


[写真1枚目]2009年、隅田川で実施したwah35「川の上でゴルフをする」(主催:アサヒビール芸術文化財団/航行協力:会田興史、平山尚、二光商運ほか)
[写真2枚目]2010年、埼玉県北本市で実施したwah47「家を持ち上げる」(主催:北本市/協力:キタミン・ラボ舍/協同制作:ORERA)。
[写真3枚目]2010〜2011年にかけて実施したwah55「ふねを作って無人島に行く!!」(主催:北本市/協力:北本団地自治会、千葉県富津「勘次郎丸」、戸田造船所、金谷アートプロジェクト、ひののんフィクションスタッフ、キタミン・ラボ舎)


 京都を拠点に活動していた増井さんですが、wah documentとしてアーティスト・川俣正氏の東京都現代美術館での展覧会『通路』(2008年)への参加を機に上京を決意。

「東京都現代美術館で作品が展示できるなんて、この機会を逃したらこの先何十年、いや、もしかしたら一生ないかもしれないと思い京都での仕事も辞めて、カバン2つだけ持って上京しました。そのときはもう腹をくくって、食べていけるかどうかは考えずに『いい作品さえつくればなんとかなる』と。ただ……全然いい作品ができなくて、その後苦しむんですけど(笑)」

「いい作品をつくりたい」その一心で制作を続けるものの、納得いくものにたどり着かないジレンマは募る一方。そんなときに荒神さんとの出会いがあり、増井さんは改めて自身のクリエイティビティと向き合うことになります。




「なかなか納得いくような作品ができない状況で、僕は南川のクリエイティビティに対する嫉妬みたいなものも生まれていて、そんな時期に荒神に出会って『僕はもう7年くらい真剣にやってきたけど、アーティストとしての能力は荒神に負けてるよな』と認めざるを得なかった。7年かけていろいろと試してみたけど、僕には圧倒的に0を1にする能力が足りなかったんですよ。本当にいいもので勝負する世界では嘘が通用しません。雰囲気でつくったとしても、本質の部分は見透かされてしまう。自分にないものを受け入れて、他者が持つ能力を認めることも必要です。それは簡単なことではないし、当時はものすごく苦しかったですけど、クリエイティビティを分配しながらひとつのチームでやってみようと。結果、自分のコンプレックスを捨てられたことですごく仕事がしやすくなりましたし、それからは徐々にいい作品ができていったように思います」


つくりたい「何か」を
探し求めた4年間

 そもそも、増井さんが成安造形大学に進学したのは「何をつくりたいかはわからないけれど、”つくりたい”という気持ちだけがあったから」と言います。

「高校3年のときに美大を目指している友達がいて『美大って何なん?』と聞いたら『芸術家になれるところ』って。え!? 芸術家ってなれるもんなん? と、ショックを受けました(笑)。芸術系の大学に進学しようと決めて、成安造形大学を選んだ理由はコンパクトで異なる専攻も近いところにあるので『この環境なら自分が何をつくりたくなってもできそうだな』と思ったからです。入学してからは、自分が何をつくりたいのかわからなくてエネルギーしかないから、山の中にステージをつくったり、グラウンドの端っこにバーをつくったり、屋上にペインティングしたり、いろいろ遊びました(笑)。当時は『遊び』というかたちだったけれど、”何かしよう”と模索していたんだと思います」


大学1年生の時の増井さん。実習室の屋上にて…。


 デザイン科映像クラス(現:情報デザイン領域 映像コース)に入学し、大学祭の実行委員会に参加したことで他領域にも友人ができた1年生の冬、増井さんは大学を辞めようと考えていました。

「『ここにいたらアーティストになれないんじゃないか、もっと厳しい環境に行かないといけないんじゃないか』と考えたんですよね。友達や家族にも相談して、大学を辞めて上京しようとしていたんですけど、あるときふと『今の環境でできないならダメだ』と思ったんです。要は、アーティストになれないのは環境のせいではなくて、自分がただやるべきことをやってないだけだなと気づいた。創作活動は誰かに求められて行うものではないので、やる理由はそんなになくて、辞める理由のほうがどんどん増えていくんですよ。でも、大切なのは自分で決めてやること。そのことに気づけたのは大きかったと思います」


 まだ見ぬ「何か」を探していた4年間。増井さんがようやく作品をつくることの面白さを実感したのは研究生の修了制作でした。それは、「◎月◎日の◎時◎分に空にあげてください」と印字したヘリウムガス入りの風船を街中で配り、その時刻に高い丘から見るという作品。


研究生の修了制作で2005年に実施したプロジェクトは、その後wah documentでも2011年6月と10月に実施。
wah53「風船を飛ばす」
(協力:成安造形大学、京都造形芸術大学、空の芸術祭実行委員会、横浜市文化観光局)。


「映像クラスだったことも影響していると思うんですけど、映画のワンシーンというか、風景やシチュエーションに興味を持っていて『景色のような作品がつくりたい』と制作したんですよね。風船を配っているときに、魚屋のおじさんが『もっと風船ちょうだい!』と声をかけてくれて、ほかの人に『これを浮かべたら空に絵ができるねん』って説明してくれたり。制作のプロセスを含めて『なんか面白いな』と。ただ、当時は創作活動で生活していけるとは思っていなくて、研究生が終わっても、何か別の仕事をしながら制作をしていくイメージしかなかったですね」


挑戦し続けるからこそ信じられる
作品が世界を変える力

 個人での創作活動をスタートしてから18年あまり。制作のスタイルも、取り巻く環境も大きく変化しましたが、増井さんの根底にある衝動は大学入学前から変わりません。取材中も繰り返し発せられた言葉は「とにかく自分が”すごい”と思えるものが見たい、つくりたい」。それは目 [mé]のチームが挑戦し続けていることでもあります。




「副業を持ちながら創作活動を続けることは考えないようになりました。自分がやっていることは世の中に必要で、それだけを生業に生活することはできると思います。年間の事業計画を立てて、税金を払って、つくったことのないものの見積もりを作成したり……大変なことも正直多いです(笑)。でも、いい作品が世界を変えると、ずっと思っています」

 そんな増井さんが、学生時代の自分へ贈るメッセージは……?

「僕は忘れっぽくて過去に執着がないタイプなので、自分が『これかな』と思うものがあれば、まずやってみるようにしてきました。『違うな』と思えば、また別の方法や機会を探せばいい。だから後悔とかもそんなにないのですが、1年〜2年生あたりの自分には『ダラダラすんなよ、一生懸命やれよ』と言いたいですね。もうちょっとできたんじゃないかなとは思います。今もそうですけど、結局はコツコツやるしかないですからね」

日々の生活で使いたい。新しい伝統工芸品3選

CULTURE NOTE

日々の生活で使いたい。
新しい伝統工芸品3選

「工芸品」と聞いて、どんなものをイメージしますか。伝統を重んじる堅苦しいもの? 自分の生活とは少し距離を感じるもの? いえいえ、そんなことはありません。最近はデザインやアイデアの力で現代の生活にもなじむ商品がたくさん生み出されています。日々の暮らしの中で、職人の技術や、伝統技法の魅力を感じることができる「新しい伝統工芸品」を選びました。

< 推薦者 >

宮永真実さん

総合領域 講師/プロダクトデザイナー

京都市立芸術大学デザイン科プロダクトデザイン専攻卒業。プロダクトデザイナーとして5年間ヤマハ株式会社に勤務。現在は、プロダクト、グラフィック問わず生活に根ざしたデザインの制作・提案を行う。


Atelier hifumi
「巡-金継ぎ時代-」金継ぎキットとお道具箱のセット(溜塗)/ Kintsugi kit and box (Red brown urushi coating)



佐賀県 伊万里焼のジュエリー
木瓜/Mokkou(YURAI)

日本の伝統技法、産地素材をベースに工芸を新たなプロダクトを展開するブランド「YURAI」。「木瓜/Mokkou」は、佐賀県伊万里の窯元・畑萬陶苑との企画で誕生した、お皿のようなかたちの伊万里焼のジュエリー。アウトラインの細やかな形状と、程よくかかった釉薬のツヤがとても美しい。”神(職人技)は細部に宿る”のだなぁと、しみじみ感じます。


越前和紙を使った石のような箱
harukami [cobble]

まるで本物の石みたいな紙製の小物入れ。福井県越前市で1500年の歴史を持つ越前和紙の技法を用い、木型に貼り付けて成形されているそうです。自然の石が持つ気持ちのいい丸みと、和紙の持つ柔らかで優しい質感が合わさって、見ているだけで癒されます。
(デザイン&写真:松山祥樹)


「木」と「漆」のストロー
/suw(スウ)

脱プラスチックの推進により木製ストローも使われる機会が増えました。衛生面や耐久性といった木製ストローの問題点を、漆を用いることで解決。京都市京北町の木材の端材を使ってストローの土台が生まれ、伝統的な京漆器の漆塗りとが組み合わさり、大切に使いたくなる魅力も生み出しています。現代の日常や価値観に根付いた工芸品になっているのがとても素敵です。
(写真:亀村佳宏、古徳信一)

子どもが自由にお絵描きしたり 集まれる場所を地元につくりたい

INTERVIEW

卒業から4年目

子どもが自由にお絵描きしたり
集まれる場所を地元につくりたい

在学中にインターンシップでお世話になった大阪を拠点に活動する合同会社エデュセンスに就職をした牧野さん。アートイベントや造形教室、ワークショップなど、さまざまな体験を通して子どもたちに表現することの楽しさを伝えている「ピカソプロジェクト」の告知全般とデザイン、ワークショップの講師などを担当しています。子どもが好きという牧野さんが、子どもとアートに関わる仕事に出会った経緯や、仕事での経験を通して見つけた目標など、自分で未来を切り開くヒントを伺いました。

牧野有さん

エデュケーター

1996年、岡山県生まれ。デザイン科の高校を卒業後、成安造形大学総合領域に入学。2017年、合同会社エデュセンスのインターンシップに参加し、2019年に入社。アートイベントやワークショップを通して子どもたちに自由につくる楽しさを伝えている。


一つの分野を極めるのではなく、
いろんなことを学びたかった

Q.01

デザインを学ぼうと思ったきっかけを教えてください。

高校でデザイン科へ進んだのはデザインに特別興味があったとかではなく、家の近くの高校にデザイン科があって、なんか楽しそうだなって。手に職がある人はかっこいいし、自分が普通科で勉強をして大学へ進学するイメージができなかったので、それだったら面白そうな方を選ぼうと思いました。授業は手描きでポスターを描いたり、パソコンを使ってデザインをしたり、いろんなことを学べて楽しかったです。

Q.02

成安を選択したのはどうしてですか?

デザイナーや絵描き、建築家を目指して一つの分野を極めるのではなく、芸術方面でいろんなことを学びたいと思っていました。高校の一つ上の先輩が成安へ進学したのを知って、オープンキャンパスへ行こうと思ったのですが、時期が過ぎていて。ホームページに個別対応もしてくれると書いてあったので、問い合わせをして普段の日にマンツーマンで学内を案内してもらいました。他の芸大のオープンキャンパスにも行ったのですが、こぢんまりとしていて落ち着く感じが良かったのと、高校の延長線でいろんなことを学べる総合領域があったので成安に決めました。


Q.03

総合領域での学びはどうでしたか?

振り返ってもイラストやデザイン、美術などいろんなことを学べて自分に合っていたと思います。総合領域では「出稽古」と呼ばれている他領域の授業を選択できる制度があるので、関心のある分野を横断的に学ぶことができました。一番好きだったのはイラストレーション領域の商品企画の授業で、自分の描いたイラストを使ってお菓子のパッケージやロゴを考えるというもの。もともと海外のかわいいお菓子のパッケージを見たり、イラストを描くことが好きだったので考えている時間が楽しくて。「出稽古」は他の領域の学生とつながることができるので、たくさん刺激をもらいました。

商品企画のパッケージ用に描いたイラスト。中国、フィンランド、メキシコのお菓子をイメージして3パターン制作。


人と何かをつくるのは難しいけれど、
だからこそできることがある


Q.04

合同会社エデュセンスとの出会いから就職までの経緯を教えてください。

出会いは大草真弓先生に将来子ども関係のことがしたいと相談をしたのがきっかけです。エデュセンスの副代表と大草先生が知り合いで、すぐに電話をしてくれたのですが、副代表に教育者向けの子どもとのふれあい講座があるからと誘ってもらい、相談した次の日にさっそく行きました。その流れで3年生の5月くらいからインターンとしてイベントのお手伝いをはじめたのですがめちゃくちゃ楽しくて。これが仕事になったら楽しそうだなって思っていたら、ある日の帰り道に社長からSNSでメッセージが届いて「就職しませんか?」って。二つ返事で「就職します」って返したら、すぐに電話がかかってきて、本当にいいのかって確認されました(笑)。

牧野さんが勤めている大阪市西区の「ひらめきスタジオ」でインタビュー。スタジオにはさまざまな画材や子どもたちの作品がズラリ!「ひらめきスタジオ」は自由な表現を楽しむための工作・アートスペースとして教室やイベントを開催し、牧野さんも講師として活躍している。
Q.05

成安でも子ども向けのワークショップをやっていたと聞きました。

滋賀県と公益財団法人びわ湖芸術文化財団が主催するアートイベント「美の糸口 アートにどぼん!」というイベントで子ども向けのワークショップをやらせてもらいました。その年は滋賀県立美術館の改修で会場が成安になったのですが、秋だったので子どもたちと学内にどんな葉っぱが落ちているか探しにいって、輪っかにした帯状の紙に集めてきた落ち葉をくっつけて帽子にしました。みんなが楽しんでつくってくれてうれしかったです。


Q.06

入社4年目、どのような業務を担当していますか?

イベント現場でワークショップの運営や教室の先生、イベント告知のチラシのデザインなどいろんなことをやらせてもらっています。2020年の年末に開催した「オズの魔法使い」のキッズミュージカルという公演のチラシは、成安の同級生で「出稽古」で仲良くなったメディアデザイン領域(現:情報デザイン領域)の吉田さやかさんにイラストを描いてもらいました。演目が『オズの魔法使い』だったので、イラストを使ってつくりたいと思い、社長と副代表に吉田さんのイラストを見せたら気に入ってもらえて。タイトなスケジュールだったのですが一発OKでかわいいイラストを描いてくれました。卒業しても一緒に仕事ができるのはうれしいですね。

牧野さんがデザインした『オズの魔法使い』の公演チラシ。成安で学んだデザインの経験を活かしながら制作している。
Q.07

ディレクションも牧野さんがされているんですね。

そうですね。演者が衣装を着ている写真を吉田さんに送って、親子で楽しめる演目ということを伝えて、吉田さんのタッチで描いてもらいました。総合領域の授業でプロデューサーみたいにいろんな人と連携をして企画をつくる授業があって、そのときはあまり考えずにやっていたけれど、社会に出て発注する側になると伝え方で仕上がりが変わることを実感して、人に頼むってこういうことなんだなって! 先生が言いたかったのはこういうことだったんだと納得しました。人と何かつくるのは難しいけれど、だからこそできることがあるのを感じます。



Q.08

いろんな人と関わる仕事はコミュニケーションが大切ですよね。

商業施設でワークショップをやるときも、主催者の考え方と私たちの考え方があって、双方で重きを置くところが違うので、話し合いながらいい落とし所を考えるようになりました。まずは集客をしないといけないので、クリスマスならツリーやリースづくりといった王道なものが人気なのですが、それを私たちがどう面白くするかが大事で。エデュセンスの素敵なところは、うまくつくることよりも、子どもがのびのび自由に表現できる手助けをしているところなので、どんな内容のワークショップでも声のかけ方を大切にしています。

Q.09

仕事で一番楽しいのは何をしているときですか?

教室の先生をやっているときです。ピカソプロジェクトが運営している教室が大阪の他に、滋賀県の大津、東京の西新宿、北海道に2つあって、私は月に一回大津の教室で先生をやっています。いつも10人くらいの子どもが参加してくれて、紙をちぎって何ができるか考えたり、木材の切れ端をグルーガンで好きな形に組み立てたり、「この画材や材料を使って自由につくっていいよ」というと、子どもたちはよろこんで創作をはじめます。

Q.10

牧野さんが学生時代にいろんなものをつくっていたからこそ、伝えられることがありますか。

小学校3年生くらいになるとうまくつくりたい欲が出てくるので、親が知らない技法を教えてあげることができたり、自分がつくってきたからこそかけてあげられる言葉があるのを感じます。子どものいいところを見つけて声をかけることが多いのですが、「そこを見てもらえているんだ」って子どもたちはよろこんでくれるので、気付ける人でありたいです。


身近な誰かに相談すると
ラッキーなことがあるかも!?

Q.11

これから成安で学ぶかもしれない学生にアドバイスするなら、何を伝えますか?

とりあえず相談してみる。身近な人に「こんなんやりたいんです」っていうだけで変わることがあると思います。私は先生に相談した次の日にうまいこといって、その流れで就職した口なので(笑)。一人で調べることも大事ですが、誰かに言ってみるのもいいんじゃないかなって。課題のことでも就職のことでも、言ってみるとラッキーなことがあるかもしれないです。

Q.12

牧野さんの今後の目標を教えてください。

エデュセンスの運営に関わるようになってから、子どもが自由にお絵描きをしたり、集まれる場所を地元につくりたいと思うようになりました。在学中から岡山に帰りたいと思っていたので、大阪のスタジオでやっているようなことを岡山でできたら楽しそうですね。


※エデュケーター…合同会社エデュセンスのスタッフの呼称。エデュセンスはエデュケーション(教育)+エンターテイメント(楽しむ)+センス(感性)の造語。「こどもたちの表現をのびやかに引き出す教育」を推進することを目的に、全国のイベントや教室で子どもたちを笑顔にする活動を行っている。





滋賀県の魅力が感じられる日常の風景3選

CULTURE NOTE

滋賀県の魅力が感じられる
日常の風景3選

地域の魅力をさまざまな方法で日々探していると、そこにしかない風習や言葉、モノ、食、暮らしが溢れ出てきます。それは自身の考え方を変革させ、新しい創作に繋がります。滋賀県は琵琶湖を中心に四方を山に囲まれた環境。自転車で湖岸や林道を走ることで、そのことを再認識し、色々な感覚が呼び起こされ、創作意欲を駆り立ててくれます。そして、日々の生活と素材が重なったとき、なにか作品のようなものが生まれる可能性があります。

< 推薦者 >

石川 亮さん

地域実践領域 共通教育センター 准教授 /美術家/附属近江学研究所 研究員

2021年、『Soft Territory かかわりのあわい』(滋賀県立美術館)関連展示にて、地域実践領域から滋賀県の特色や潜在能力を表した《MUSUBU地図 vol.3》を発表。近年、宗教民俗学者や環境システム工学研究者との共同研究に取組み、美術表現の新たな可能性を模索している。


全体-水(近江の水源)2012〜
滋賀県の約120箇所に点在する湧水を一つに集める装置作品。球形に凍らした湧水は、地図の位置関係と合うように配置しています。ひとつ一つに名前のある氷の湧水はゆっくりと溶け、やがて混ざり合い、台からあふれだします。下の水槽に流れて溜まり、ひとつの名も無い水となります。湧水を汲みに行くことから始まり、ひとつの水になるまでの様子を見届ける作品です。



仰木から坂本へ抜ける林道

大学のある仰木地区から比叡山の裾野に通る林道を自転車で走り抜けます。澄んだ空気をたっぷり吸い込むなか、風が吹き、木々の揺らめきを感じながら無心でペダルを踏むと、日頃のモヤモヤなどが一気に吹き飛びます。ここを抜けると西教寺や日吉大社に抜け、日本の歴史の大舞台を感じることができます。


棚田、道、山

仰木地区の神社をお参りしたあとは、棚田の風景を横目に、長い下り坂を進む道へ。遠方に見える比良山系を仰ぎながら隣の集落の神社まで一気に駆け降ります。時々、この風景に虹がかかることがあり、季節によって色とりどりの風景を楽しむことができます。


琵琶湖と自転車

旧街道から湖岸に出ると所々に休憩のできる公園があります。ここで石に腰掛けて、琵琶湖と愛車を眺めながら途中で買ってきた手作りパンを食べるのが好きです。目の前の琵琶湖はいつも違う表情を見せてくれ、自分のなかの“何か”を呼び覚ませます。走ること、食べること、景色を眺めることは新しいことを思いつくきっかけになり、来るべき新しい社会を想像させます。

ゲームの制作現場で活きる、 学生時代の予期せぬ出会いと経験

INTERVIEW

卒業から6年目

ゲームの制作現場で活きる、
学生時代の予期せぬ出会いと経験

卒業して3年後には独立し、現在はフリーランスのゲームデザイナーとして活躍する小野裕貴さん。話を伺うと、漫画家を志して入学し、制作漬けの日々を送るつもりが、想像もしていなかった学生生活になったよう――。しかし、現在の仕事の源流を辿っていくと、在学中も卒業後も”流れ”に身を任せてきた、小野さんのしなやかさに秘密があったようです。

小野裕貴さん

ゲームグラフィッカー

1993年高知県生まれ。2016年にイラストレーション領域を卒業後、オンラインゲームの会社に就職。転職を経て、2019年に独立。フリーランスのデザイナーとして、主にスマホゲームのグラフィック・演出を手掛ける。また、SNSでは個人制作のゲームなども発信している。

>Twitter:@imo_dekai


成り行きで飛び込んだゲーム業界。
あれよあれよと”バイプレーヤー”に

フリーランスのゲームグラフィッカーとして、都内にスタジオを構え、制作を行う小野裕貴さん。グラフィッカーとは、ゲームのキャラクターや背景、アニメーションなど、グラフィック全般のアートディレクションと制作を担う仕事。加えて小野さんは、キャラクターデザインや演出も手掛ける“バイプレーヤー”でもあります。


スマホゲームのグラフィックや演出を手掛ける小野さん。
街づくりパズルゲーム「コビトタウン-かわいいコビトとまちづくりゲーム」もそのひとつ。
(リリース日:2021年10月18日/配信元:ふんどしパレード)


卒業年の2016年にゲーム業界に足を踏み入れ、わずか3年で独立。これまで多くのスマホゲームを手掛けてきた小野さんですが、実はゲーム業界に就職したのは“成り行き”だったと言います。
「自分は、漫画家になりたくて成安造形大学に入学したんです。学生のときはデジタルで絵を描いていませんでしたし、就職活動をするつもりもありませんでした。でも、進級制作展で美大生の就活サイトを手掛けている方に声をかけてもらって、勧められるままにポートフォリオや履歴書を出していたら、ぬるっと採用が決まったんです(笑)」


新卒でゲーム会社に入社すると、「UI(ユーザーインターフェイス)デザイン」の部署に配属された小野さん。「UIデザイン」とは、Webサイトやゲームなどでユーザーが操作に迷わないように画面をデザインすること。デザインではなく、絵が描きたかった小野さんは戸惑います。
「当時は『UIって何?』というレベルでしたし、UIデザインは成安造形大学でいうと、イラストレーション領域よりもメディアデザイン領域(現:情報デザイン領域)で学ぶ分野なので、自分としては正直不本意でした。ただ、UIデザインの部署に配属されながらも上司に『絵が描きたいんですよね』と言っていたら、ちょこちょこキャラクターの仕事もやらせてもらえるようになったんです。新卒にはいろんなことを経験させたい、という会社の方針もあって、UI、キャラクターデザイン、モーション(キャラクターを動かすアニメーション)など、結果的に1年間で5回、部署を異動しました。それが功を奏して、いろんなことができるようになりました」


 分業が基本のゲーム制作の現場。そのなかで複数の職種を経験できたことが、小野さんの今に繋がっています。
「例えば、キャラクターデザインはモーションのことを考えてデザインしないといけない部分があったり、モーションはエフェクトのことを考えて動きをつけなきゃいけない部分があったりします。それぞれ別の人がつくるので、キャラクターデザイン優先でつくってしまってモーションに制限が出てしまうことや、その逆も経験しました。ほかの職種の仕事を理解しているほうがより良いものができると、そのとき実感したんです」


小野さんがレイアウト、演出、イラストを担当したスマホゲーム「バズーカ・ロワイヤル」
(リリース日:2021年9月6日/発売元:ふんどしパレード)


 1年間に約200万本のアプリがリリースされるほど、スマートフォンの普及とともに急拡大したスマホゲーム市場。業界の新陳代謝は激しく、入社すると3年目あたりからベテラン扱いとなり、新入社員を指導する立場になるのだそう。
「割と早い段階でキャリアアップさせてもらい、入社2年目からリーダー職を担っていました。1年目でひと通りの制作に携われたおかげで、できることも増え、画面全体のトータルデザインを手掛けながら、背景はこの人に、エフェクトはこの人にお願いしようと、ディレクションを行うようになっていました。実は今やっている仕事もあまり変わらなくて、当時経験したことの“お釣り”でやってきているような気がします」

経験値をためて独立。
自分の働きやすい環境をつくる

 就職した会社で順調にキャリアを積んでいた小野さんですが、入社3年目あたりから少し風向きが変わりはじめます。
「3年目に入った頃から、自分が手を動かすことよりも管理や調整をする役割が増えてきたんですね。けれど、まだディレクターという役職ではなかったりして、ジレンマを抱えていました。そんなときに『もともと絵が描きたかったんだよな』と思い出して、絵を描いて、自分発信でものづくりができる環境でキャリアアップしたいと、転職活動をはじめました。そうしたら大手の会社にイラストレーターとして採用が決まり、転職しました」



 念願だった絵を描く仕事。しかし、小野さんが新しい環境に踏み出したきっかけは「絵を描きたい」「自分発信でものづくりをしたい」「キャリアアップしたい」この3つ。自分の絵は世に出るけれど、ディレクションには関われない、規模の大きな会社ではライバルも多くキャリアアップは簡単ではない……。身を置く環境を冷静に分析した小野さんは、悩みます。
「絵を描くことは楽しいけれど、キャリアアップを考えたときに『これをあと何年やれば行きたい場所にたどり着けるのだろうか』と思ったんです。それはもう、絵が描けなくなるくらい悩みました。そんなときに、まだ退会していなかった転職サイトをのぞいてみたら、大手の会社での勤務経験があるというだけで、結構なオファーが来たんです。また、キャラクターデザイナーはたくさんいますが、求人数の割にUIデザイナーの数はすごく少ないというのもオファーがきた理由のひとつ。キャラクターデザイナーの転職は難しいと思いますが、UIデザイナーの実務経験が3年くらいあれば、おそらく転職には困らないように思います」


 2回目の転職先で、ゲームの企画から携わるようになった小野さん。「自分発信でものづくりをしたい」という想いはここで叶えられ、残すは「キャリアアップ」です。
「当時はすごくキャリアに囚われていたというか、結婚の予定もあったので『どうお金を稼ぐか』を考えていて、SNSで仕事のオファーをいただいて副業をはじめたんです。そうしたら、副業が本業になるくらいの忙しさになってきたので独立することにしました」


作業部屋のほかに、スタッフ2名が生活する部屋もある小野さんのスタジオ。「宇宙」をテーマにした空間は、物件を決めたときに描いたイメージ通り。家具の配置は、3Dで綿密にシュミレーションして決めたという。


 独立後に構えた小野さんのスタジオには、2名のスタッフがおり、彼らは成安造形大学の後輩にあたります。ひとりは在学中に小野さんとシェアハウスで暮らしており、もうひとりは2021年に卒業したばかり。ゲームの制作経験がない2人ですが、小野さんが教えながら一緒に制作をしています。
「この業界は万年人材不足なので、将来的なことを考えるとプロジェクト単位で人を雇うよりも、できる人材を育てるほうがいいと考えているんです。働く時間は、割と自由にしていて、勤務時間もとくに決めていません。やるべきことをきちんと達成できれば良いので」



“思い描いていなかった”ことから
学んだ学生時代

 在学中の4年間、大学祭実行委員会や学生会に関わっていた小野さんは、年齢も領域も超えて多くの卒業生とのつながりを持っており、今も一緒に仕事をすることがあるそう。
「高校生の頃は文化祭も体育祭も、絶対中心に入らないようにしているタイプでした。なので、大学入学後も友達をつくらず、4年間ずっと絵を描いて腕を上げ、漫画家になるイメージを持っていたのですが、実際はまったく違う学生生活でしたね(笑)。入学式で新入生代表挨拶をすることになり、その準備をしているときに当時の学生会会長に誘われて、1年生の頃から大学祭実行委員会に参加したんです。それを機に先輩や後輩と接する機会がたくさんできました。その上、シェアハウスで生活していたので、学生時代はわちゃわちゃしていました」



 シェアハウスのきっかけは某人気恋愛リアリティー番組。
「友達と『テラスハウス』を見て、あのキラキラした感じに憧れて(笑)。あと、アルバイトに時間を費やしたくなかったので、生活に必要なお金を抑えたかったんですよね。本当にノリなんですけど、周りの人に話していたら気がつけば物件が決まって。2年生の3月くらいからシェアハウス生活がはじまりました。和室だし、住人は全員男だし、その上半分以上が一人暮らし未経験だったからたくさん揉め事もあったし、現実はまったくキラキラしていませんでしたけど。でも、家賃6万円くらいのところに5人で住んでいたので、光熱費を入れても家賃はひとり約2万円に抑えられていました」


当時のシェアハウスの様子


 学生時代を振り返り、「これまでの人生のなかでは大きな岐路だった」と話す小野さん。ものづくりの基礎や考え方は授業で、人との関わり方やチームビルディングは大学祭実行委員会、学生会、シェアハウスや似顔絵のアルバイトから得てきました。
「高校生の頃に考えていたように、クリエイティブなことだけに集中した学生生活をおくっていたら、今の仕事はできなかったと思います。いろんな人をつなぎ、まとめるという意味では、学生時代も今も、やっていることは変わらないですね。想像していたビジョンとは違ったけれど、結果的に良かったと思います」

「ねばならぬ」からの開放。
方向転換、軌道修正は自由自在

 大学生時代も卒業後も、「何か」に固執せずに流れに身を任せたからこそ、自分が想像する以上の出会いや経験を得てきた小野さん。ただ、学生時代には、周囲が個人の制作に集中するなかで、学生会や大学祭、サークルの立ち上げに走り回っていたことに劣等感もあったと言います。
「クリエイティブ以外のことばかりやっているな、という劣等感みたいなものはありました。やっていることは楽しいし、無駄とも思わないけれど、まわりと比べるとちょっと不安というか。でも、当時の自分に声をかけてあげるとしたら『不安に思うことはないよ』と言ってあげたいですね。今でもつきまとっている感情ではありますが、でも、そこまで不安に思うことではない。中途半端でも、全部使えるものになっていたら、最終的に仕事に結びついていく。まぁ、こんなことを言っても、当時の自分には無視されそうな気がしますけどね(笑)」


小野さんが卒業制作で発表した漫画『危機危険なこの世ナウ』


 小野さんは卒業制作の作品を漫画投稿サービス「ジャンプルーキー!」に投稿し、編集部からも「一緒に漫画をつくりましょう」とコンタクトがありましたが、その頃は就職先も決まっており、入社後は仕事が忙しくなったため、その話は立ち消えました。しかし、小野さんは”漫画を描きたい”という欲求を手放したわけではありません。
「ゲームもつくりたいし、漫画も描きたい。そのあたりは割とふわっとしています。流れに任せて生きてきた自分の経験から、『思い描いていた生き方と違う』とか『目標を達成できない』ということに、必要以上に不安がらなくてもいいんじゃないかと。自分自身が、できること・やりたいことでしか動けない人間なので、そこをガチガチに固めてしまうと動けなくなるんです。『どうとでもなるやん』くらいの、ゆるい心持ちでいるほうが、なんだかラクでいられると思います」


手探りながらも運営したオンラインイベント。未知の世界から新たな可能性が広がりました

NOW SEIAN
ライフスタイル編

手探りながらも運営したオンラインイベント
未知の世界から新たな可能性が広がりました

江藤小梅さん (イラストレーション領域 メディアイラストコース 4年生(当時))
堺俊輔さん (情報デザイン領域 写真コース 3年生(当時))

世界的な新型コロナウィルス感染症の流行から、私たちの行動や思考にさまざまな変化が起こった昨今。
大学でも、オンライン授業の開始や教室環境の改善、状況に応じた学内活動の制限など、政府や自治体の方針に基づいた対応を行なってきました。
このような状況下でも、オンライン上でイベントを企画、開催した学生2名にお話を伺いました!


※2021年に取材した記事です。取材時は感染症拡大防止の措置を取りながら、取材・撮影を行っています。
※この取材は取材時にはパーテーションの設置やマスク着用を行い、撮影時のみマスクを外して行われています。



仲間と一緒に楽しみながら生み出した
成安初のオンライン学生交流会

2020年2月末。新型コロナウィルス感染症拡大の影響で大学は入構禁止となり、それまで当たり前のように制作活動をしていた学生たちの姿は、学内から消えてしまいました。4月の入学式や先輩たちが後輩を温かく迎え入れる新入生歓迎会も、密を回避するために中止という状況の中、情報デザイン領域・写真コース2年生(当時)の堺俊輔くんは、2020年5月に『オンライン学生交流会』を開催しました。

「いつも仲のいい友達と『何か面白いことしたいよね』と話をしていて。そうしていると、先生や職員の方からオンライン上でのイベントの話が出るなど、いくつかの偶然が重なって。それなら、新入生歓迎会も兼ねたオンラインイベントを開催しよう!となりました」。具体的に準備を始めたのは、開催1ヶ月前の4月頃から。仲間たちと一緒に、それぞれが得意な分野を活かしながら準備を進めていき、イベントを企画したそうです。「その頃、1年生の授業をサポートするスチューデントアシスタント(SA)もやっていたので、新入生への告知はスムーズにできました」。とはいえ、オンライン上でのイベント企画は初めて。すべてが未知で手探り状態なうえ、オンライン上の空間でたくさんの人と交流するという感覚が根付いていない状況での開催に、どれぐらい参加があるか不安だったそうです。

「友達や職員さん、先生方も積極的に参加してくれて、楽しく運営できました。ほとんどがノリと勢いで進めていたかもしれないけど、そのお陰で企画から実行までノンストップで行けた気がします(笑)」と笑いながら語る堺くん。

では、具体的にどんなイベントを企画したのでしょう──。
「ビデオチャットツールを活用し、オンライン上に成安のキャンパスを再現した仮想空間を作りました。サークルやいろんなテーマの小部屋をつくり、参加してくださる職員さんや先生たちはいつも居る場所にいてもらい、参加者は各部屋に自由に入室して、中の人たちとビデオチャットで会話ができる仕組みです」。イベントは5月12日〜14日の3日間開催し、新入生だけでなく上級生の参加もあり、のべ100人以上が来場してくれたとのこと。「後から知ったのですが、実際に対面授業が開始されてから『あのイベントで一度話せてたからすぐに仲良くなれた』と言う話を後輩から聞けたのは、一番嬉しかったです」。

このイベントの成功から、8月1日には『夜のセイアン・ウォッチング』というオンラインイベントでも企画を任されることに。「職員さんから声を掛けていただいたんですが、なかなか企画が通らなくて(苦笑)。本当にしょーもないものも含めて500以上の企画を友達と出し合い、なんとか『作品展示の搬入の様子を配信する』という企画が通りました」と、笑いながら語る堺くん。いろいろと反省点はあるものの、みてくれた人からは「良かった」と言う反応がもらえたり、作品を展示してくれた作家さんからも学ぶことが多く、良い体験ができたという実感を持てたそうです。

「remo」と言うツールを活用し、実際に開催された『オンライン学生交流会』の画面。上から見た大学構内を再現し、実際に大学を歩いているような感覚で各部屋を回れるようにこだわっている。


行動制限がある今だからこそ
“活動する”ことに意味がある

一方、新型コロナウィルス感染症拡大の影響から、2020年度の大学祭は中止が決定。全国的にも悔しい思いをした学生たちが多くいる中、成安造形大学では7月頃から大学祭の代わりとなるオンラインイベント『成安フェス』の準備が進められいました。このイベントの企画・運営を担ったのは、イラストレーション領域・メディアイラストコース4年生(当時)の江藤小梅さん。彼女は、2019年度に学生会のメンバーとして活躍し、前年度の大学祭実行委員の経験もありました。

この頃、大学では対面での課外活動が原則禁止とされ、同好会の活動もできない状況下にありました。新入部員の勧誘もできず湿った空気感のある中、江藤さんは、同好会がメインとなれる企画を立案。全ての同好会に連絡を取り『成安フェス』への参加を促しました。「同好会の活動が滞っている中、活動することに意義を見出してほしかったこともあり、どんなイベントを開催するかという内容や、集客等の告知も含めて全てお任せしました。開催日までに動画作品を作って参加した同好会もあれば、ウェブツールを使って参加型のワークショップを開催してくれるところも。実際にイベントがしにくい同好会もあるので、そういったところは紹介のためのホームページを制作してくれたりと、さまざまな方法で参加してくれました」。20前後ある同好会のうち、ほとんどの同好会が参加してくれたそうです。

大学祭実行委員の大変さを知っていたからこそ、最初はあまり乗り気ではなかったそう。しかし、「こんな事やったら絶対に面白いよ!」と教えていただいた先生のテンションや友人の後押しもあり、『成安フェス』をやってみようと前向きになれたそうです。

全ての同好会との調整や、イベントのプラットフォームとなるホームページの制作など、運営の仕事は1人で行ったと語る江藤さん。「できる部分は全部1人でやってみたいと思っていて。とは言え、先生や友人に相談することはありました。特に先生からのアドバイスや励ましはガソリンになりました」。彼女自身、全ての同好会の活動を把握している訳ではなく、全員が「はじめまして」の状態からのスタート。加えて、元々コミュニケーションに苦手意識を持ちイベント開催にも不安を感じていたけれど、積極的にコミュニケーションを重ねていくことでスムーズに準備を進める事ができたそうです。

3ヶ月の準備期間を経て、2020年10月、毎週土日の計9日間に渡り『成安フェス』は開催。各同好会も行動制限がある中でも、工夫を凝らしながら準備を整えてくれました。「このイベントに個人で参加してくださった方がいたり、企画を見てお家でハンドメイドしてみたと言う報告を貰ったり。同好会からも好評で、このイベントで開催した企画を同好会の中でもリポートしたことなど、たくさんの嬉しい報告をいただきました。何より私自身、全ての同好会のイベントに参加したので、一番楽しんでいたと思います(笑)」。

各同好会の紹介はもちろん、Zoomを活用した悩みや不安に応える「せいあんふあんかいとうひろば」や「似顔絵絵しりとり」など、リアルタイムで参加できるイベントや、お家でも楽しめる動画コンテンツを公開するなど、さまざまなイベント企画が集結しました。


変化をプラスに捉えることで、
制作の幅は広がっていく

初めこそ未知の世界だったものの、インターネットを活用したコミュニケーションやイベントの企画運営は、デジタルネイティブ世代の2人にとってはなんなく活用でき、実践の中で不便さも感じられなかったそうです。

「対面じゃないと嫌だなぁ。不便だなぁ。と言う感覚は全くなかったです。元々そんなに人と積極的に話すタイプではなかったのもありますが(苦笑)。でも、今回のイベントの運営を通して、普段あまり話さないタイプの人や喋りかけるのに勇気が必要な方にもすんなり話しかける事ができ、新たな体験をさせてもらった気がします」と、江藤さん。イベント開催という一つの目標達成に向けて、コミュニケーションへの苦手意識を払拭できたと話してくれました。

「僕の中では、オンラインとリアルな環境の区別が明確になりました。コロナ以前では、オンラインとリアルの境界線が曖昧だったけど、今は、オンラインでの対話はリアルな対話の代替にはならないと思っています。それぞれに良さがある。特徴を理解して使い分けると楽しめるし、貴重な体験ができます。僕にとってコロナ禍は悪いことばかりではなかったです」と、現代を肯定的に捉えている堺くん。仮想空間を介することで生まれる気持ちの変化を自身の中で感じ取り、上手にツールを使い分けながら今も作品制作に活かしているそうです。

大きな生活様式の変化にも怯む事なく、新たなコミュニケーションや作品制作のカタチを生み出しながら“今”を生きる。大切なのは、どう変わったのかを悲観するのではなく、変化を受け入れながら最大限に楽しむこと。今の時代を生きる学生にとって、クリエイションの可能性は無限大に広がっているのかもしれません。


PROFILE DATA


江藤 小梅さん 
イラストレーション領域・メディアイラストコース4年生(当時)
幼い頃から絵を描き、本の挿絵や印刷向きのイラストを勉強中。作品では、身近な悩みや気持ちを代弁してくれるような女の子のイラストを描いている。


堺 俊輔くん 
情報デザイン領域・写真コース3年生(当時)
美術系高校時代の専攻がきっかけで写真に出会い、写真を使った作品制作を行う。面白いと思えることにはジャンルの垣根を超えて興味を持ち、自身の制作にも生かしている。

セイアンアーツアテンション14「Re:Home」レポート 後編

REPORT

【キャンパスが美術館】展覧会レポート

学び舎の軌跡を振り返りその先の未来を想う
セイアンアーツアテンション14「Re:Home」
後編

開学当時の歴史を理解しながら展覧会を楽しむ

成安造形大学の歴史は、1920年(大正9年)に創立された成安裁縫学校が始まりです。創設者の瀬尾チカさんは、裁縫技術を身につけることで女性の自立を促し、広く社会で活躍できる人材の育成に取り組みました。
この頃の日本は和装が主流でしたが、1920年頃から洋服を着用するモダンボーイ・モダンガール(通称:モボ・モガ)が現れ始めます。同時に、男性中心の世界から女性が新たなライフスタイルを見つけ出すという時代の中にいました。「家」という枠組みに捉われない、新しい女性像を広める挑戦です。

後編では、大学が歩んできた100年の歴史とコスチュームデザインコースOB・OGによる展示レポートです。「母校=家」、また、衣服を人を環境から守る一番小さな「家」と考えると、新たな視点が生み出されるのではないでしょうか。

モボ・モダ時代に活躍した
学祖の想いが現代に活きる



京都の夏は、今も昔も変わらず暑さが厳しい。今でこそ半袖・ノーネクタイのクールビズが当たり前になりましたが、当時の洋装は、ジャケットにネクタイが基本の時代でした。
そんな中、ジャケットを脱ぎ捨てネクタイを外し、襟元を開けた「開襟シャツ」を普及させる運動がスタート。京都では「京都開襟クラブ」が結成され、成安女子学院は開襟シャツのパターン(服の設計図)の考案と受注製作を行なっていました。

このような背景を記録した「京都成安女子学園60年史」には、開襟シャツのパターンが残されていました。
この当時と同じパターンを使い、学生達が新たな感性を加えて復元した開襟シャツを制作し、「百年後も思ふ。」と題された色とりどりの開襟シャツは、スパイラルギャラリーの2Fに展示されました。

シャツのそばには、プロジェクトに参加した学生達の言葉。2mの布を無駄なく設計されたパターンから、資源を無駄にしない当時の考え方を理解し、ドキュメンタリー映像からも参加した一人ひとりが学祖の想いを受け継ぎ挑戦したことが伺えました。



学び舎から巣立ち、
社会で活躍するOB・OGたち

「開襟シャツ」が展示されるスパイラルギャラリーには、卒業生である明石麻里子さん、谷藤百音さん、佐々きみ菜さん(3名ともコスチュームデザインコース卒業生)の作品も展示されました。
3名は、布を裁断して縫うのではなく、オーガンジーをあぶる、グルーガンで描く、モールを繋ぎ合わせるなど、それぞれの手法でテキスタイルを生み出し、服飾やオブジェ作品を制作。小さな素材を繋ぎ合わせて作られた作品は、完成までにどのくらいの時間が費やされたのでしょう。コツコツと積み重ねることで完成した美しい作品は、私たちの日常にある小さな営みの尊さを感じさせてくれるようにも思いました。


久保李緒さん

内野菜摘さん

河原林美知子さん

小角綾さん

加藤沙知さん

梅林夕乃さん

大野知英さん


カフェテリア結では、ビニールや金属、紙、ゴミ処理される予定だった布の端や糸くず、髪の毛といった、服には使われない素材を使用した作品が集められ、梅林夕乃さん、大野知英さん、河原林美知子さん、久保李緒さん、内野菜摘さん、小角綾さん、加藤沙知さんの卒業生、教員7名による作品が展示されていました。



会場の一角には、コスチュームデザインコースの活動を発信するファッションサークル『美菖蒲』が制作したスライドも。通常、展示やファッションショーで見ることしかできない作品を試着してもらうというコンセプトで、2枚のスクリーンの間に立つと映像で衣装を試着できる仕組みです。試着した自分の姿は、鏡で確認することもできました。

開襟シャツの展示構成やドキュメンタリー映像、後述するギャラリーウィンドウの写真や動画制作を行なったのも同じサークルです。今年5月に結成されたばかりのサークルですが、フリーペーパーの発行やファッションショー『SEIAN COLLECTION』にも関わる予定で、今後の活躍に期待です。



ギャラリーウィンドウは、個展形式で展示された岩﨑萌森さんの作品。織る・編む・結ぶというテキスタイル(布)の基本動作を連続し、ミシンや型紙などは一切使用せず、麻糸と細く切られたポリエステル素材を手作業で編んでいくことで作られています。壁面に飾られた《制限と可能性》、窓際の《反と角》は、コロナ禍のステイホーム中に木枠機(編むための枠)を身の回りにあるもので自作するところから始めた作品。制限がかかる中でも制作を止めず、新たな可能性を切り開いた彼女の作品から、美しさだけでなく力強さと温もりも感じました。



最後に忘れてはいけないのが、バスストップギャラリー。京都成安学園が歩んできた100年の道のりが、年表やアーカイブ動画にまとめられ紹介されました。なかでも長岡京にキャンパスがあった時代、平安神宮や建仁寺などの文化的価値が高い場所でファッションショーが行われている映像は衝撃を覚えました。過去の歩みを参考に、この先100年の秘められた学び舎の可能性を想像すると、未来がより一層楽しみになります。

前半へもどる

SEIANOTE
成安造形大学
〒520-0248 滋賀県大津市仰木の里東4-3-1
TEL : 077-574-2111(代表) 
FAX : 077-574-2120
FOLLOW SEIAN!
LINE SEIAN WEB SITE 資料請求