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SEIANOTE

成安で何が学べる?
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在学生の制作活動から卒業後の活動までを綴る
「SEIANOTE(セイアンノート)」です

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コミュニケーションを デザインという”焚き火”で生み出す

INTERVIEW

卒業から12年目

コミュニケーションを
デザインという”焚き火”で生み出す

 ボッテガ・ヴェネタとのコラボレーションで世界的な注目を浴びたネオンサインをモチーフにしたループアニメーション、展覧会などのポスターやビジュアル、岡山のいちご農園のカフェの企画・運営。
 これらはすべて、奥山太貴さんの仕事。一見バラバラのようで、実はこの3方向のクリエイションは「デザインで通じている」と奥山さんは語ります。
 さまざまなボーダーラインを、”デザインの力”で飛び越える――。その背景にどんな学生生活、卒業後の道のりがあったのかを辿りました。

奥山太貴さん

アートディレクター・デザイナー/グラフィックアーティスト

1988年岡山生まれ。2011年にグラフィックデザインクラス卒業。東京、岡山、そしてインターネットの3つのフィールドでアートディレクター、デザイナー、グラフィックアーティストとして活躍するほか、地域や農業の課題に”いちご農家”として取り組む。


焚き火とデザインは似ている!?

奥山さんの仕事はアートワーク、ディレクション、デザインなどメディアを問わず多岐にわたる。
[写真1・2枚目]BOTTEGA VENETAのデジタルジャーナル『ISSUE 03』の表紙&裏表紙を飾ったアートワーク
[写真3枚目]劇団子供鉅人「不発する惑星」公演のポスター・フライヤー
[写真4枚目]ほぼ日(ほぼ日刊イトイ新聞)「生活のたのしみ展」サイトディレクション・デザイン
[写真5枚目]実家の家業である「奥山いちご農園」のリブランディング、カフェの企画・運営にも携わる。

「デザインは仕組みづくりだな、と思うんです。例えば、東京で企業のブランディングをしたり、展覧会などのビジュアルをつくったりするとき、伝えたいメッセージをどう届けるか。いちご農家の場合は、いちごとお客さんがどう出会うのが幸せなのか、つながりを生むためには何が必要なのか。どの仕事においても、コミュニケーションが軸にあるような気がします」

 奥山さんが「デザイン=コミュニケーションを生むための仕組みづくり」とはじめて意識したのは、成安造形大学に入学して間もない頃だったそう。

「新入生歓迎会のバーベキューのとき、なかなか火がつかなかったんですよ。炭を並べて、何度火をつけて頑張っても、一向につかない。そのとき、教授がポロッと『それもデザインですからね』と言ったんです。当時は『わけわからんこと言わず、手伝ってくれよ』と思いましたが(笑)、ずっとそれが心に引っかかっていて。あとになって、炭や薪の組み方や、火のつけ方によって勢いのある火を起こすこともできれば、じわじわ燃える火を起こすこともできると気づいたんですよね。どんな方法で、どんな火を起こすかによって、バーベキューだったら肉の焼き上がりも変わるし、キャンプファイヤーだったら場の雰囲気も変わる。いわば、デザインは『火起こし』で、その火によって生まれる諸々の事象がコミュニケーションだなと。これは今の働き方の基本になっていますね」

 モノやカルチャー、ブランド、場所と人とのコミュニケーションを軸に、それが届くまでの仕組みそのものだったり、印刷物やコンテンツだったり、空間やコミュニティだったり、最適な方法で火を起こしていく。それが奥山さんの「デザイン」です。しかし、もともと人見知りだった奥山さんは他人とのコミュニケーションが苦手だったそう。


奥山さんの仕事部屋の片隅には、本やマンガが山のように積まれている。中学生の頃から遊び場所は古本屋。「はじめて彼女ができても、デートは古本屋でした。一緒に古本屋へ行くけど、あとは店内で別行動。今思えば、そんなデートないなって思うんですけど(笑)、そのとき一緒に古本屋に行っていた彼女が今の妻です」

「高校にあまり行っていなくて、家でずっとラジオを聞いたり、マンガを読んだりしていて、勉強もしていなかったんですよね。美大に行きたい、とデッサンはやっていたけど、学力がないので筆記試験がある大学は難しい。そもそも出席日数が足りず高校を卒業できるかも怪しかったんですが、美大のことを調べてみたら成安造形大学の推薦枠が条件にあてはまっていた。ここなら行けるかもしれない、そんなきっかけで成安造形大学を選んだんです」



創作活動の根幹にあった
コミュニケーション欲

 
 高校時代から、ラジオや音楽、本やマンガなどを通してサブカルチャーにどっぷり浸かってきた奥山さん。成安造形大学在学中に、フリーペーパー『純真MOOK』(2009-2010)を友人と創刊します。

「雑誌を制作するエディトリアルデザインの授業で、僕の作品を読んでくれた同級生が『おもしろいから、ページを持ったらどう?』と、学生たちが制作している学内新聞サークル『こえ』に誘ってくれたんです。そこでも楽しく制作していたんですけど、もっと自由に表現するなら自分でメディアをつくるのがいちばんいいなと。ファッションデザインクラスの友人を誘ってはじめました。ちょうど、ネット印刷がだいぶ安価になってきた時期で、冊子をつくるのに昔ほどお金がかからず、手軽につくれるようになっていたのも大きいと思いますね」


毎号見開き(2P)を担当していたという『こえ』。ページをめくっていると、異彩を放つ見開きで手がとまる。ビジュアルのインパクトはもとより、学内の展示場所をジャックする企画や勢いのある文章まで、こだわりと熱量がページから溢れ出ている。

 『純真MOOK』のテーマは、”僕からあの子へのフリーマガジン”。人見知りな奥山さんは、”誰か”に向けてコミュニケーションを取るための何かをつくりたかったのだそう。
「フリーペーパーなら、『つくったので読んでください』と人に直接渡すこともできるし、落ちていたら誰かが拾って読むこともあるだろうし。ネットだとなかなかできない直接のコミュニケーションと、偶発的なコミュニケーションが生まれるのがいいなと」


『純真MOOK』創刊号の特集は「出会う」。どうすればかわいい女の子との出会いが生まれるか? が詰まった100本のショートショート企画も。2号目の撮影用に鉛筆で制作したタイポグラフィのラブレターは、『純真MOOK』とともに卒業制作作品となった。

 編集やエディトリアルデザインに興味を持っていたため、卒業後はブックデザインの会社で雑誌や本に関わる仕事をしたいと考えていた奥山さんは、ポートフォリオ制作に力を注ぎます。完成したポートフォリオは”奥山図録”ともいえる、2冊組の大作に。
「本末転倒なんですけど、つくるのが楽しくなっちゃって、完成した頃には就職活動時期が終わっていたんですよね(笑)。しかも、紙や製本にも凝っていたから、あんまり量産できなくて、いろんなところに送ることもできない……。だから、就職活動は1社だけ面接を受けただけなんです」


1冊はアナログでWEBを表現した作品や、実家の「奥山いちご農園」のロゴやパッケージデザインの仕事などを、ビジュアルだけで見せるもの。もう1冊は内容を説明した副読本の2冊組のポートフォリオ。凝った装丁は、ポートフォリオというより、作品集。


新しいカルチャーに触れる居場所と仕事。
それぞれが教えてくれたこと

 就職先が決まっていなかったものの、卒業後は東京に行くと決めていた奥山さんでしたが、卒業式当日に東日本大震災が起こり、一度岡山県の実家に帰ることになりました。実家は奥山さんの祖父の代から続く「奥山いちご農園」。いちご農家の最盛期を手伝い、春を迎えて上京しました。

 上京後は在学中に制作していた『純真MOOK』が縁で、日本初のフリーペーパー専門書店「ONLY FREE PAPER」に携わりながらWEB制作会社で働きはじめます。

「『ONLY FREE PAPER』に携わるなかで友達もできて、少しデザインを頼まれたりすることもありましたが、生活をしていると当然お金がなくなっていく。新しいカルチャーを支えるには、フィジカル的にも、メンタル的にも、金銭的にも、体力がいるんです。僕を含めて、『ONLY FREE PAPER』が居場所になっている人はたくさんいたし、なんとか守りたいという気持ちも強かったですね。もともとWEBは全然つくっていなかったのですが、紙のように印刷費がかからないこともあって、独学でつくるようになって。ただ、独学だと手詰まりを感じたのでWEB制作会社に就職しました」


 週のうち5日は会社に行き、終業後や土日には「ONLY FREE PAPER」へ足を運ぶ日々。この頃を振り返り、奥山さんは「仕事をして労働の対価に社会性と報酬を得る一方で、『ONLY FREE PAPER』というオルタナティブでインディペンデントな実験場で新しい可能性を広げていく。自分のなかではバランスが良かった」と語ります。
 しかし2013年8月、渋谷パルコ(当時)にあった「ONLY FREE PAPER」が閉店。同時にWEB制作会社も退職。デザイナーとして、グラフィックデザインをもう一度きちんと学びたいという気持ちから、デザイン事務所で働き始めるも折り合いが悪く1ヶ月で解雇されてしまいます。

「中高生の頃は、こんな僕でも社会でやっていけるのだろうか?と不安に思っていたんですけど、WEB制作会社で働いたり、『ONLY FREE PAPER』で新規事業やイベント企画、店舗運営をやったりして、意外と僕は社会に出てもやれるぞと思っていたところだったので、結構ショックは大きかったですね」


「ONLY FREE PAPER」のCI(コーポレート・アイデンティティ)を制作。名刺や各種ビジネスツール、イベントの告知物から店頭POPに至るまで、すべて一人で担当した。

 その1年後、「ONLY FREE PAPER」が移転再開することになり、奥山さんに再び声がかかります。「ONLY FREE PAPER」が入居したJR高架下の商業施設を企画・設計・運営する会社と出会い、場づくりを行うその会社で働くことになりました。

「その会社はクリエイティブ、建築、編集、マーケティングなど、小さい規模ながらいろんなセクションがあり、まちづくりを考えたり、設計した施設のためにコミュニティをつくったり、イベントや冊子を企画したりと様々な施策を総合的に手掛けていて。そこで人とまちの関係や、その仕組みづくりなど、いろんなことが学べたと思っています」

 ここでの経験が、奥山さんが後に実家の家業でもある「奥山いちご農園」をリブランディングすることにも繋がります。


実家のいちご農園が抱える切実な課題を
新しい仕組みで解決

 実家に帰省したとき、奥山さんは両親が深夜1時まで働き、早朝5時に起きるという状況を目の当たりにし、「いつの間にこんなことに? どうにかしなきゃダメだ」と決意します。解決方法を模索しますが、末端の作業のやり方を変えても、根本的な問題の解決には至らない――。生産者→JA→市場→小売店→消費者という、収穫してから消費者の手に届くまでのスパンが長い流通方法も、「奥山いちご農園」にはフィットしていなかったことに気づいた奥山さんは、新しい仕組みに挑戦します。

「一般的にスーパーなどで流通しているいちごは、収穫してから消費者に届くまでのスパンが長く、熟す前の少し青い時期に摘んで流通の過程でだんだん赤く追熟させるのですが、それでは糖度が上がらないんです。それに対して、実家のいちご農園では完熟したものだけをこだわって収穫しています。ただ、それだと足が早くて鮮度が落ちやすい。市場へ直接卸すのと直売の両軸でやっていましたが、早朝から収穫して、流通に乗せるための規格に沿ったパック詰めをしながら接客もして、というのは大変です。直売率をあげれば、規格にとらわれずにたくさんのいちごを詰められるし、そしてなにより、いちごをいちばんおいしい状態で届けられ、お客さんにもきっと喜んでもらえると考えました」


真っ赤に熟したおいしそうな「奥山いちご農園」のいちごが、学生時代に奥山さんがデザインしたロゴがあしらわれた箱にきっちりと並ぶ。しかし、規格に合わせて粒をそろえ、ひとつひとつパック詰めする作業は大きな負担となっていた。

 直売率を上げるためには、新しいお客さんと出会い、購入してもらう必要があります。そのために、直売所と一緒にカフェをつくることにしました。
「カフェができれば、かたちが良くないいちごも加工して、お客さんに新しい楽しみ方の提案をすることができます。これはブランドをどう大切にするかという、ブランディングの話になるのですが、いわゆる”B級品”みたいに、かたちが良くないいちごを安く販売してしまうと、それを目当てにする人が増えて、ちゃんと売れるものが売れなくなってしまう。生産している農家が自分たちで加工して、販売まで手がまわるようになれば、いろんな問題が少しずつ改善されるのではないかと仮説を立て、リブランディングをしていきました」


直売所でしか買えない、箱にごろっと詰められた完熟の朝採れいちご。どこか、いちごがのびのびとしているように感じられる。カフェ「plate」はオープン初日から大盛況。定番になったジャムやシロップのほか、DEAN & DELUCAとのコラボレーションで生まれた、砂糖を極限まで控えた完熟いちごジャムも毎年すぐに完売する人気商品に。

 2016年から月に1週間は岡山、残りの3週間は東京の二拠点になり、準備を進めること約1年。その間に、会社も退職し、独立。2017年にオープンした直売所兼カフェ「plate」は、初日の2日間で440名が来店し、夕方にはいちごも完売。
「それまで深夜までパック詰めに追われていたのに、夕方にはいちごがなくなったので『今日はもうやることがないぞ!』と、みんなで焼肉を食べに行きました。この時間に夕飯が食べられる! しかも外食だ!! って(笑)」

 奥山さんが新しい炭の置き方を考え、起こした火に多くの人が集まりました。今では直売率100%。どこにも卸しておらず、購入できるのは「奥山いちご農園」の直売所のみ。遠方から訪れる人も増え、オンラインで購入できるジャムもシロップも発売早々に完売。毎年販売時期を待ち望む「奥山いちご農園」ファンが全国にいます。


インターネットの世界は、フリーペーパーと似た
早くてシームレスなコミュニケーションを可能にする

 2021年、ボッテガ・ヴェネタが手掛けるデジタルジャーナル『ISSUE 03』の表紙&裏表紙と誌面を奥山さんのアートワークが飾り、同年のボッテガ・ヴェネタ秋冬コレクションの広告メディアセットも制作。大阪・阪急うめだのポップアップでは、奥山さんの作品を中心としたネオンディスプレイで構成されました。


2021年、阪急うめだ本店ポップアップストアで展開された奥山さんのネオンインスタレーション。

 ボッテガ・ヴェネタからのオファーに繋がったのは、奥山さんがまだWEB制作会社に勤務していた頃、フリーペーパーのような「速く」「垣根のない」コミュニケーションをネットの世界に見出してはじめた自身のWEBサイトが起点でした。

「フルタイムで働く合間の息抜きと、自身のアイデアのスケッチ的に、制作した自分のグラフィックをネット上にスクラップする『noichigo_source』を始めました。当時、音楽のネットレーベルが自由にリミックスできるようにフリーで音源素材をリリースしていたり、『Tumblr』も流行っていて、フリーカルチャーの速くてシームレスなコミュニケーションっておもしろいなと思っていたので、グラフィックでもできないかな?と。自分のグラフィックをIllustratorやPhotoshopのデータごとダウンロード可能にして、クリエイティブ・コモンズ・ライセンスをつけて自由に使えるようにしたんです」


2013年6月に開設した「noichigo_source

 この「noichigo_source」に素早く反応したのは、海外のクリエイターたちでした。デザイナーが奥山さんのグラフィックを素材に新しい作品をつくったり、写真家がポートレートとコラージュしたり、ネットレーベルがアルバムジャケットにしたり。二次創作、三次創作が次々と生み出され、ロンドンのクリエイティブサイト「It’s Nice That」に取り上げられます。

「その後、また『It’s Nice That』から『クライアントワークが見たい』とリクエストがあったので、友人のバンドのデジタルフライヤー兼VJ用として制作した最初のネオンのアートワークと、成安造形大学で開催された展覧会『Playing BODY Player』でのアートワークを送り、掲載されました。それから海外のいろんなメディアに取り上げてもらうようになったんです。どこからどういう経緯で見てくれたのかはわかりませんが、4年後にイタリア・ミラノにあるボッテガ・ヴェネタのクリエイティブチームから連絡がありました。やっていれば見てくれている人はいるし、いいものをつくれば返ってくるんだなと、思いました」

 インターネットのフリーカルチャーシーンに興味を持ち、そこに放った小さな火種が少しずつ広がり、大きな炎となっていきました。


『It’s Nice That』に掲載された成安造形大学「キャンパスが美術館」の展覧会、2018秋の芸術月間 セイアンアーツアテンション11『Playing BODY Player』のアートワーク。


“えいやっ!”と壁を越えれば世界は広がる。
学生時代から持ち続けた「勝手にやる」精神





 まるで”フリーカルチャー”のように、ローカルとグローバルを自在に行き来しながら、あちこちで”焚き火”を起こす奥山さん。学生時代の自分に贈るアドバイスをたずねてみると――。

「学生時代、自分のなかで決めていたテーマが『勝手にやる』だったので、たぶん当時の僕に声をかけても聞いてくれないと思います(笑)。今思えばですけど、あの頃って子供から大人になる時期で、何か始めるときに『親や先生、偉い人の承認を得ないといけない』って勘違いしやすいんです。それで何もできなくなる人を見てきたこともあって、『勝手にやること』が必要なんだなと気づいたんですね。だから、フリーペーパーをつくっていろんなところで配ったり、勝手にやっていました。『noichigo_source』をつくったときも勝手にやったから、遠く離れた海外の人にも届いた。しがらみの多い農家が組合や流通を離れてお店をやるのもそう。今でも、『勝手にやる』は自分のなかに持っていることです。きっと、何かにつながるから、あの頃の僕にはできれば声をかけないようにして『それでいいぞ』と、ほっときます」